2-20 ドロー嬢6

文字数 1,511文字

ドロー嬢6

 旭川は機嫌よく家に帰ってくる。仕事の内容は相変わらず分からないが、需要なミッションは抑えているとのこと。その為、余裕があり、以前のように機嫌がいい。何か思いついたらノートにメモし、それを次の日、実験のように試す。被験者は部下らしい。あまり趣味の良いことではないような気がしたが、旭川の家ではそれが当たり前で、たまに残酷なパワハラの様子を夕食の食卓で聞くことがある。それが当たり前だったので、ドロー嬢は当たり前が戻ってきたことを、嫌だけど、歓迎した。ロックンロールバンドの支援をしているときは目を輝かせて夢のようなことを言っていたが、あれは苦痛だったし、思った通り二週間もすると雰囲気は変わってしまった。何かイライラして、ことば少なになり、二ヶ月もしたらふさぎ込むようになった。期待した分だけ、現実が思うようにならないと、人は絶望するんだということがよくわかった。そのタイミングで池上から旭川の事を電話で聞いて、父親が思ったほど大人ではないことに失望したとともに、社会が思ったほどレベルが高いわけではないと安心した。
 その頃からアニメの書き方が変わったのかもしれない。社会と分断された、アートとしてのアニメーションだったが、自分がもう少し先、いや、とっくに社会性を持った大人になりつつあることが理解でき、準備が出来ようと出来まいと、社会と対峙することが必要であると覚悟のようなものができた。すると、作品に対するアプローチが変わった。自分が描くもの、動かすものは、自分が描きたくて描いているのだが、その先に、見る人がいるのだ。それが強く意識できるようになった。すると、線一本に重みのようなものを感じるようになった。ただ、好きなように描き流すのではなく、見た人がどう思うのか、どうすれば伝わるのか考えるようになった。そういったことを意識して描き始めると、視聴者が増えた。認められたと実感した。自分が描いたものを見る人がいる、見るとは、頭の中で描く事だ。作品が自分から飛び出して、世界を捕まえ出したのだ。
 あまり多く描く方ではないが、はーちゃんのアニメから、視聴者の幅が広がった。これはマネーマンのおかげだ。マネーマンが勝手に大金を使って宣伝してくれた。海外の人も見始めた。最近は英語のコメントも増えてきている。
 マネーマンの神輿のアニメが海外から注目が高く、人が人を乗せた木組みを担いで騒ぐという様子が、支配者を多くの人が祭り騒ぎで支えている、その様子と、その描写が優れていると評価が高かった。筋肉が盛り上がり、汗を滲ませ、多くの人間が、弾むように、支配者であるマネーマンを弾かせるように担ぎ上げ盛り立てる様子。支配者と被支配者、集団で楽しそうに全力で支える様子。担ぎ上げられる支配者は満足しきった様子。側から見れば、その構造に嫌気がさしそうだが、その一体感、祭り騒ぎに、何か、羨ましくなる不思議なアニメだった。支配者は満足だし、被支配者たちも、支配される側に責任は発生しないので、集まって何も考えずに騒げるという気楽な自由がある。たった一人が支配者で、あとは平等で、それはまるで仲間が大勢いるようで、寂しくない。そういった社会構造がアニメを見ただけで伝わる作品だったのだ。海外からはそういった見方で評価した。喜劇であり、悲劇である。社会の鏡であり、歴史である。個人の企みであり、責任逃れである。素晴らしい。資本主義の滑稽な末路であり哲学がある。外人はマネーマンのことなんて知らないが、はーちゃんが死んだことを知らないが、このアニメに価値を見出していた。見出されたドロー嬢は、自分が作った作品に誇りを持ち始めていた。
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