2-27 ドロー嬢8

文字数 1,531文字

 ドロー嬢8

 夢も希望も砕け、頼れる家族も幻想だった。ドロー嬢は全てを失った。部屋から外を眺めても、日差しや風が悪意あるものに思える。世界に対する信頼を無くしてしまったら、自分だけが他所者に感じられ、疎外感が大きな山のようになって囲ってくる。息をするのも躊躇われ、ただ、時間だけがゆっくりと過ぎていく。包丁のある場所を考えていたとき電話が鳴った。池上だった。
 「おい、金持ちにやられたな。でもな、金持ちは、力比べしたら、力持ちより弱いから安心しろ。評価持ちが金持ちに負けるのを認めるわけにはいかないから、無償で手伝ってやる。だから、起きろ、そして、線を引け!」
 面倒なことを言う奴だとドロー嬢は思ったが、返事することなく電話を切って、思いに任せて線を引く。その線は、踊り、広がり、形になっていく。そうしているうちに、煩わしい現実がなりを潜め、自分の中に膨大な世界が広がっていく。線が全てを形づける奇妙な世界だが、それが外に出たいとドロー嬢に嘆願する。ああわかったよとドロー嬢は自分の中にある膨大な世界の一部を表に現す。
「線は呪いではない、絵は武器ではない、あなたの絵は何のためですか?」ヤンの言葉は嘘ではなかった。その通りだ、絵は呪いでもないし、武器でもない。認識すべきは、絵は何のためでもない。ただ、自分が単純に描きたいし、みんなに見てもらいたいだけなのだ。それ以上でもないし、それ以下でもない。で、その方法があって、それを使っていたら、注目され、金が生まれただけなのだ。そのお金や注目で苦しくなるなんて、思いもしなかった。結局、自分が自分のつくったものに追い詰められているだけであった。どうせ元には戻らない。クリアは無理だとすれば、絵を描くしかないのだろう。それしかできないし、それしかしたくないし、それしか無いのだ。
 ドロー嬢はせっせと思うようにアニメを描いた。動物やら乗り物やら、建物などがある目線から描かれて、それが飛ぶように過ぎていく。飛ぶような景色の中に大勢の人がいる。悪いやつに殺されたり、家族が笑ったり、野糞をしているところを見られたり、結婚式をあげたり、路頭に迷ったり、怯えたり、泣いたりしている。そのアニメには躍動感はあるが、感動はない。人は描かれているが、主人公はいない。誰のためでもない、何の目的もない。ただ、事細かに実在するように描かれているので、見た人は、現実的な存在感のある虚構に自分の存在を試されるような異様を感じ、ついには平伏すように圧倒される。具体的な感想は出ないが、訳のわからない深い感銘は受ける。つまり、傑作が誕生した。
 作品が出来上がると、池上はさっそく彼のクライアントに仕事を依頼した。依頼された側は、お金という報酬が発生しないが、評価という報酬にありつけると理解して、こぞって仕事を快諾した。いい宣伝になるし、彼らが一番必要とする「いいね!」がたくさん手に入る。
 ドロー嬢は完成したアニメーションの出来栄えに満足はしなかった。ただ、今できることを全力でやったことに関しては、達成感はあった。しかし、一つの作品が完成したからといって、旭川が裏切ったことには変わりないし、その間で引き裂かれてしまって、疲れ切った母、慶子はそのままだった。頑張ったからって、家族の温かみとか、身の回りに対する幸福感などが手に入るわけではないと、しっかりと理解した。ただ、自分ができることを、周り気にせずにしたかった。あの裏切り者の父親も、自分ができることをしたかったんだろう。そう思うと、許す許さないとかではなく、仕方がないことだと捉えることができるようになった。誰にも期待してはダメだ。そのことが理解できていればこの先も大丈夫だろう。
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