第65話 歩夢

文字数 1,841文字

 二日後、深田さんから小説が届いた。
 仕事を終えて帰るとドア内側のポケットに入っていた。
 それまで石原さんのことが気がかりだったのだが、それを見たとたん、脇に置いた。というより脇に飛んだ。
 石原さんには、電話でこの後どうするの、と聞いていたが、実家に帰るとのこと。どうやら高橋店長とは別れたようだ。歩夢はとりあえず安心した。
 部屋に入って、封を切り深田さんの原稿を手に取る。途中で買った食品は無造作にテーブルに置かれた。二枚目中ほどまで読んで、止めた。きちんとした状態で読もう。手早く支度して食事を摂る。しかし、食器を洗うのは後回しにした。さあ読もう。コーヒーを淹れ椅子に座る。急いている気持ちを抑え、敢えてゆっくりと原稿をめくる。まずコーヒーを一口口に含む。また、一枚目から読む――。
 その夜に二度読んだ。一度目はストーリーを追って。二度目は文章を感じて(・・・)
 深田さんの小説は今まで何作か読んだが、今回は文章の上手さ、特に自然の描写に感銘した。 前の作品を読んだときにも感じたことだが、自分の文章が陳腐に思えた。以前に増して。
 興奮と焦り、いや心地よい悔しさで、その夜は自分の作品は書けなかった。もっとも読み終えた時は夜もかなり更けてはいたこともあったが。
 そして、仕事を終えた翌日の夜、明け方までパソコンに向かったが、深田さんの作品が頭から離れず、タイプする指の、いや創作する脳の動きが緩慢なのを覚えていた。
 深田さんのような綺麗な文章を書きたい。——話を聴きたいな。
 そして多くの時間を、モニターを睨めるだけで過ごした。明日は吉永さんが来るというのに。
 何とか登場人物を動かすことで終えた。二枚半。ストーリーが少し進んだだけだった。
 疲れた。
 このまま吉永さんに逢うわけにはいかない。シャツを脱いでベッドに横になりひと眠りする。
 ――車が停まる音がぼんやり聞こえる。少しして発車する。タクシーだろうか? 歩夢の部屋は一階なのでこういうことはよくある。はっと目を覚ます。時計を視る。十時を少し過ぎている。
 チャイムが鳴る。吉永さんが来た。
 急いでシャツを着、頬をパンパンと張り、ドアを開ける。
「駅からけっこうあるのね。何で引っ越ししたの? 前のアパートのほうが便利でしょ。行ったことないけど」
 吉永さんは挨拶をする前にこう言った。
 思わぬ言葉に、とっさに取り繕う。
「えっと、いろいろありまして。家賃の問題とか……」
「あ、ごめん。変なこと訊いちゃった。今日は他にも行くところがあるから、少し焦って」
 専務と逢うことだな、と思った。
 そして吉永さんは、上がっていいんでしょ、と聞く。
「あ、すみません。どうぞ」とスリッパを示す。美沙が使っているものだ。
「あら、かわいい。客用のも用意しているんだね。よく来るの? お客さん」
「ええ、まあ」と応える。
 顔には出さなかったが、女性だと判っただろう。
 部屋をぐるりと見回して、「まあまあの環境で書いているのね。食卓が大きいのは机代わりね。いいんじゃない!」と吉永さんは言う。「……でも、思ったより本が少ないわね。わたしが知っているデビュー前の人、作家予備軍ね、若くても結構本は持っているわよ」
「もう少しあったのですが、去年の地震で……。あ、建物が崩れる危険があったので運び出せなかったんです」
「そうなんだ。でもあんないい小説が書けるんだね」去年応募した作品を言っている。
 言いながらベッドや食器の棚に目を遣る。
 ――ふんふん。ふ~ん――
 微かにしか聞こえなかったが、吉永さんが思ったことは歩夢には判る。茶碗やコーヒーカップなどペアの食器も観ただろう。片づけておくべきだった。気が回らなかったな。だが、そのことの言葉はなかった。
「さて、続きを読ませてもらうわね。前回送ってもらったものの続きね」と言い、当然のことのように食卓の椅子に座る。「まだインターネット回線引く気ないの?」
 プリントした原稿を受け取りながら、こう言った。ひまわり荘にいた時も言われたことだ。美沙も引こうか、と言ってくれたことがあった。だが、日常の通信はスマホで十分用が足りる。原稿は郵送で十分だと思っている。そのためだけに高い通信料は払えない。それと、パソコンで繋がってしまうと作品が常に管理される気がして嫌だった。実際そうなることはないとは思うが。
 これだけ? 少ないわね、と言われるかと思いながら昨日まで書いた原稿を渡した。案の定、その表情が出た。が、何も言わなかった。
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