第29話 ホテル・セントラルフォレスト

文字数 1,368文字

 歩夢の――高橋と名前がでたので、ドキリと心臓が膨らんだ。突然のことで美沙は応えられず下を向いた。
「いや、責めているのじゃなくて、もしそうならスタッフに加えるのはまずいので確認しているんだ。」
「すみません……」美沙は小さな声で答える。「高橋くん、住む所が無くなって避難所で生活するというので……見かねて、あたしが言ったんです」
 美沙は自分の顔が赤くなっているのが判る。ふしだらな女だと思っているのだろうな。
 でも、いいわ。どうせ咲江にも知られたから、歩夢とのことが知られるのは時間の問題だ。歩夢もバカ正直なんだから。給料明細書を送るからと電話があり、あたしのアパートの住所を応えるなんて。取りに行きますとでも言っておけばいいものを――。でもこうなったらむしろ皆に知られた方がいいのかも。後に引けなくなってなってしまった方が……。わー、こんなときに何を考えているのだろう。
「そうか、小関さんは優しい人だね。その確認をしたかっただけ。しょげなくていいよ」中森次長は美沙を元気付けるように言う。
 中森次長は好き合った男女が一緒に暮らすことに偏見は持っていなかった。彼はいい青年だから大事にして、と言われたくらいだ。だが、周りにはそうでない人、口うるさい人もいる。社内の人間に嫌な思いをさせることを避けたいのだ。
「いっそ君たち結婚してくれればいいんだけど」と、笑った。冗談だと解かったが美沙は身体がほてった。
「僕も高橋くんの仕事先、いい所がないか知り合いにでも声をかけておくよ」
 歩夢のことを気にかけてくれる次長に、美沙は親近感を持った。

 美沙はいつもより早く出勤した。
昨日の帰り際、三浦課長から、本部への説明に同席してくれ、と言われたのだ。課長会議は明日だが、その前日、つまり今日からホテルに来て各課からいろいろ話を聞くのだそうだ。説明は課長がするが、細かなことを訊かれたら補ってくれとのことだ。
 今日一日かけて資料を整えようと思っていたのだが、とりあえず本部の人の分だけでもやらなければならない。昨日残業しなかったのは、歩夢と一緒にお菓子を作る約束をしていたから。そのチーズケーキとドーナッツは美味しかった。なにより一緒に作っている時間が楽しかった。
 事務室にはまだ誰もいなかった。
「静かだな」自席に座ろうとしたとき、入口に人の気配がした。警備員だった。
「おはようございます。今日は早いですね。いつもの警備日誌、置いていきます」
 管理課長の席へ歩いてきて、机に黒表紙のファイルを置く。記入した用紙を日ごと綴っていくものだ。
 警備日誌は毎日、夜勤の警備員が管理課長へ上げる。課長はそれを見て特段異常がなければ押印して警備に返す。変わった事案が記されていれば支配人に持っていくのだが、めったにないみたいだ。あれば困ることではあるが。
「ごくろうさまです」と出ていく警備員を見送る。警備日誌か。異常なしなんだろうな。
 ん? 何かが引っかかった。
 先日警備員が言った言葉を思い出した。『……変なことがあれば警備日誌に書いておくので……』
 課長の席へ行き、日誌を手に取った。
 新しい日付けから拾い読みしていく。
 三枚目。そのページを読んで、眉を曇らせた。次ページへと用紙をめくっていく。それは、まだあった。七枚目。十二枚目……。
 美沙は唸ってしまった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み