第3話 歩夢

文字数 1,625文字

 一昨年、希望に胸を膨らませて志望校のM大学の門をくぐった。文学部人文学科。卒業後は出版社で仕事をしたいと思っていた。
 私立のM大学。入学金と授業料を合わせると結構な額になる。家にはあまり負担をかけられない。アパートは六畳一間、小さなシンクと調理台が付いているだけ。バスなしトイレ共同。小型冷蔵庫など単身用の生活家電を揃えてもらっただけでもありがたい。
 アパートへの引っ越しの日は母と妹も来た。妹は、掃除、洗濯まめにしなさいよ、と母親みたいなことを言う。家族皆が応援している。でもそれに甘えることなく、アルバイトはしよう。東京にはいろいろなアルバイト先がある。近くのコンビニに、すぐ見つけた。
 楽しいキャンパスライフが始まった。文芸サークルにも入った。

「ブックスたかはし」
 岐阜の家業の名称だ。店の経営は苦しい。
 ブックスたかはしの客は、相次いでオープンしたショッピングモール内の書店に流れている。さらに、中古本の全国チェーン店も進出してきた。売上げは平成に替わった二十年前の半分以下にまで減った。今は、コミックや雑誌を主体に販売して凌いでいる。
 高橋睦夫は商工会の寄り合いの後、会員三人の雑談に加わっていた。古くからある木工所の話だ。元々は人家が少ない地区だったが住宅が増えてきたので、山側に移転するというのだ。
「で、その跡地にスーパー丸佐とドーマック、ペンギン屋がそろって進出するらしい」一人が言った。
 それらは県南部に十数店持つスーパーチェーン、関西資本のホームセンター、全国展開の衣料品量販店だ。跡地の長期借地の話が進んでいるらしい。
 睦夫は、あの辺も変わっていくだろうな、と思って聞いていた。
 それぞれが散ると、中の一人、三上が睦夫と並んで歩きながら話してきた。自動車整備工場をやっている。確かその木工所の近くだ。
「脇田の畳屋な、廃業するんだ。洋風化で仕事が減ったうえ、おやじが歳で、畳を持ち運ぶのも難儀しているらしい。」
 廃業か、他人事(ひとごと)ではないな、と思う。
「脇田畳工店って、さっき話していた木工所の近くでなかったっけ」
「そう、隣だよ。五六ヶ月のうちに東京の息子の処へ行くんだと」
 ん! 睦夫は閃いた。その畳屋の廃業がまだ広まっていないなら――。
 翌日現地を見に行った。道路に面して木工所のすぐ隣に畳屋はあった。敷地もまあまあある。
 千載一遇のチャンスだ。念のため木工所移転のことは他の会員にも訊いてみた。噂は本当だ。畳屋の場所に書店を構えればショッピングモールなみの集客ができる。

 二年生に進級したころ仕送りが止まった。電気水道部屋代が引き落とされて残高が減っていく。忘れているのだろうか。今に送金されるだろうと、不安な気持ちを抱きながらアルバイトで凌ぐ。だが、このままでは前期の授業料が払えない。催促するのは気が引けたが、家へ電話した。母親は泣いているのか怒っているのか判らない口調で「お金は無い。送れない」と言う。理由を問うと、泣き出した。
「お父さんが逃げた」
 母親の、あちこち飛んだ、途切れ途切れの話を、時間をかけてやっと理解した。
 父親は書店の資産をつぎ込んで畳工店の土地を買った。あとは大型店の進出に合わせて現書店を売って新しい店舗を建築すればいい……はずだった。が、木工所は移転しないことになった。景気への懸念から進出予定の企業が控えたのだ。残ったのは借金と畳工店跡、土地、抵当のついた書店だった。
「これで立ち直れる」。この起死回生の計画が潰えた父親は自棄になった。家に残っていた金を持って、書店のパート店員と一緒に逃げていった。前々から関係があった。母親は感づいてはいたが言い出せないでいた。そのパート店員は人の妻だった。
 書店を続けることはもうできない。住み続けることもできない。父親のことは町の噂となっていた。
 家族を、自分をも棄てた父親。人生逃避、こんな言葉があるなら投げつけてやりたい。
 大学から授業料の督促がきた。
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