第55話 美沙

文字数 2,513文字

 歩夢は今日、光談社の吉永さんからいろいろ話を聞いてきたはずだ。夕食のとき話してくれるかと思ったが、それは無かった。今晩の歩夢は落ち着きがない。それに時折携帯に目を遣るのが判る。誰かからの電話を待っているようだ。食べ終えて食器を洗い始めたら携帯が鳴った。携帯の表示を見た歩夢の顔が緩んだ。古い友人だって。違うだろう。さっきから待っていた人でしょうに。隣へ移って話していたが、長い電話だ。食器を洗い終えてしばらく経ったがまだ話している。ちらりと覗いたら楽しそうな顔をして話していた。別にじゃまする気はないので、すぐドアを閉めた。間もなく終わった。あいつ長電話なんだよ、って言い訳したけど、判る。女性ね。それも待ち焦がれていたほどの。
 そして二日後、遅番なのに八時半ころにいそいそ出かけて行ったのは何。
 ――どうかしたの? って訊けばいいのに出来ない。

 そんなぐずぐずしたあたしの気持ちに関係なく、四月からホテル・セントラルフォレストの新年度が始まった。といっても営業は継続しているので、官公庁のようにトップからの挨拶はない。部内で新任の挨拶があるくらいだ。
 さあ、新総務部長が来るぞ。机を配置し、待った。男性社員はソワソワしているようだ。誰からともなく美人のキャリアウーマンだ、と言い出していたからだ。
「おはようございます」
 その声に皆事務室の入口を注目した。そして、一人の例外もなく全員が口をあんぐりさせた。三浦次長に伴われて入ってきたのは、男性だった。しかも背が低く、小太り、おまけにたれ目。
「みんな、石原部長です」三浦次長が紹介する。
「石原聡美です。あー、皆さんの思っている事、分かります。なんだ、おっさんかよ、ですね。がっかりした方、私の親を恨んで下さい――」
 石原部長はあえて、男性であることを知らせないよう頼んでいたとのこと。ま、楽しい演出ではあった。挨拶も面白かった。また、挨拶のなかで自分を呼ぶ時は肩書でなく名前にさん付けで、とも話した。美沙は親しみやすい人だなと思った。
 石原さん(・・)の挨拶が終わってから、三浦次長から一件の報告があった。中森部長の奥様が亡くなったとのこと。白血病だったという。病気のことを、ほとんどの社員はこの日初めて知った。
 美沙はこのことを帰ってから歩夢に知らせた。歩夢は驚き哀しんだ。美沙も、美沙の案を取り上げてくれたことなどから親近感を持っていたので、他人事とは思えずとても気の毒に思った。変なもので、歩夢と悼みを共感したことで歩夢へのぐずぐずした気持ちは薄れていった。

 四月に入ってから、部屋にいるとき歩夢はほとんどパソコンに向かっている。ただ、前のように楽しそうでない。ふーふー言いながら書いている。大きな約束を負っているからね。手助けは書き易い環境を整えることしか出来ない。家事を引き受け、それ以外の時間は邪魔をしないように、ヘッドホンで音楽を聴くなどしている。なので、一緒に食事を摂るときくらいしか会話の時間がなくなった。ある日の朝食で「石原さんが結婚しないのはね……」と話しかけた。石原部長をさん付け呼んでいるので、つい出た言葉だった。
「え! 石原さん?」それを聞いた歩夢は慌てた。
 そのことを、深く考えず石原さんのことを話した。
「あ、石原部長のこと。まだおしえてなかったわね。名前が聡美っていうのよ。赴任してくるまで、みんなてっきり女性だとばかり思っていたの」
「あ、そうなんだ……」歩夢は、ほっとした顔をした。「そういえば、駅前店の店長が男なんだけど高橋みゆきというんだ。よく女性と間違われたと言っていたよ」
「あら、前に聞いたわよ。豪快な人なんでしょう」
「そうだっけ? 同じ高橋なので話したかも知れないな」
「話は戻るけど、その石原さんね、若いとき大恋愛したんだって。その人を忘れられないからですって。と、本人が言っているの……」
 久しぶりに会社のことが話題になった。
 
 出勤して石原さんの顔を見て、美沙は朝のことを思い出した。さっき歩夢、慌てたよね。何だったのだろう?
 そうだ、石原って名前を思い出した。前に歩夢が自分の小説を読んでもらうため早起きしてプリントしたときの人だ。
 あの長電話もその人か?
 そう思うとまたぐずぐずした気持ちが湧いてくる。もう、こんなふうに思い悩むのは嫌だ。
 二日後の歩夢が休みの日、美沙は仕事が終わってから歩夢の職場、文盛堂青葉城店へ行った。デスプレィやPOPのセンスがいい店だなと思った。本を選ぶ振りをして店員のネームプレートを見ようと思っていたが、レジに女店員が二人いるだけだ。チラリと見ただけでは名前まで読めない。ゆっくり店内を巡る。探している本が見つからないと店員に訊いてみよう。そのときネームプレートを見ても不自然ではない。二人のうちどちらかが石原さんなんだろうか。一人はショートカット、もう一人は後ろで纏めている。どちらも小柄で可愛らしい容姿をしている。
 歩夢はいつも彼女たちと仕事をしているのか。美沙の心が騒ぐ。嫉妬? 
 レジへ向いかけたとき、奥のドアから別の店員が出てきた。その店員は、トモちゃん時間よ、あがって。とショートカットの店員へ声をかけた。
 トモちゃんとやらの名字を見ないと、美沙は急いでレジへ歩いた。
 ショートカットの店員は、はいと返事してレジを出る。そして、「あ、石原さん、明日でもあたしのPOP見ていただけますか?」と言う。石原さんと呼ばれた店員は、いいわよ、お疲れさま、と応えている。
 あの人が石原さんか。大柄なおばさんだ。家庭の主婦パートなんだろう。あたしの考え過ぎらしい。
 美沙は気持ちがすっきりした。
 回れ右をするのは変なので、そのままレジへ歩く。石原さんの前に立ち、
「すみません、宮沢賢治の銀河鉄道の夜ありますか? 探せなかったのですが」と、訊く。
「ございますよ。文庫本や子供向けなど幾つかありますが。一緒に探してみましょうか」と、優しい口調で言う。
 美沙は子供向けを買った。表紙の絵が気に入ったからだ。
 歩夢にこれを見せ、「青葉城店へ行ってきたよ」と言えばどういう顔をするだろうか? 喜ぶかな。驚くかな。
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