第10話 ホテル・セントラルフォレスト

文字数 1,773文字

「この建物は阪神淡路大震災級の地震でも大丈夫です。落ち着いて、私について来てください」
 美沙はそう言って客を一階へ誘導する。途中、階段の踊り場で高橋が壁に向かって何かしている。踊り場の壁に飾っていたオブジェのガラス部分が割れている。その欠片が周りに散らないように除いていたのだ。
「ご苦労様です」美沙は声をかける。
 高橋は振り向いて、「このままだと、危ないと思って」と言う。と、
(いて)っ」、と声を発した。手の甲をガラスの破片で切ったようだ。
 美沙も驚いた。右手から血が染み出てくる。
「ごめんなさい、あたしが話しかけたから」
「大丈夫です」左手で押さえている。
「大丈夫じゃないわ。とにかく一緒に下に行きましょう」
 ティッシュを二三枚あげて、客と一緒に半ば強引に連れていく。
「手を洗ってきてください」言ってから、フロントに用意してある救急箱を借りる。
 手を、と言い消毒薬を吹き付ける。高橋は神妙な顔をしている。
「高橋さん、下の名前なんていうんですか?」
「あゆむ、歩くに夢」
「歩夢、いい名前ね。あたしは、みさ」傷は大したことがないようだ。
 みさ、と言ったとき歩夢の顔が曇ったのに美沙は気づいた。何だろと思ったがそのまま続ける。
「こせきみさ。こせきは小さい大関。みさは美しい、とさんずいに少ない」
 これ押さえてて、と化膿止めを塗ったガーゼを渡した。大げさかなと思ったが、美沙は包帯を巻いてあげる。
「ああ、美沙さんというんですか」歩夢は手から美沙の顔へ目を移した。「沙、はいさごのことですね。細かい砂とか水辺の砂地」
 美沙は感心した。「すごいわね。なかなかいないのよ、この意味を知っている人」
「ああ、それは……」そこで気づいた。お互いが手を握ったままだった。
 二人は笑顔を交わして手を離した。
 異性の手を握るのなんて、もうずいぶんなかったな、二人ともそう思った。
 その「ずいぶん」にはかなりの差があるが――。
 客室階にある社長室から社長が青ざめた顔で降りてきた。本部に連絡したか……。連絡ついたか? と言っている。
「社長、電話は通じません。ここは私たちで対応しましょう」支配人が応える。「社長はフロントにいて、全体を見ていてください」
 時間とともに少し落ち着いてきた。ロビーに集められた客はそれぞれ各自の職場や家へ戻って行く。皆徒歩になる。立体駐車場は止まっている。一様に不安そうな顔で出ていく。
「ありがとうございました。十分お気をつけて……、」
 こんな事態でも係員は丁寧に見送る。

 暗くなってきた。出ていく客がいる反面、ホテルに来る人もいる。家へ帰れない人だ。一時避難させてください、明日まで居させてください、と言ってくる。泊まれますか? と旅行者もやって来る。公共の交通機関は動いていない。何日になるか見通しがたたないらしい。
 支配人の指示で、宴会場フロアの安全な会場に案内する。続々と疲れた顔でやって来る。日が暮れると冷えてきた。寒そうにしている人もいる。暖房は停止している。
「次長、テーブルクロスを寒さしのぎに貸してあげてもいいですか?」歩夢が中森に訊いた。
「おお、いいな。ぜひやってくれ」すぐ承諾された。歩夢はリネン棚へ向かった。山本くん、宿泊階から毛布も借りてきて、と言っている中森の声が聞こえた。
 何人かの女子社員が泣いている。ラジオやネットなどを通じて状況が分かってきた。未曽有の災害に見舞われているのだ。社員たちも元気がなくなっていく。海側の東部地区に家がある社員はどんな思いだろう。帰りたいだろうが、今行かせるわけにはいかない。
 社員にとっても、今はホテルの中の方が安全なのだ。
 宴会フロアで子供が泣いている。
 支配人のもとへ中森次長がやってきた。
「炊き出しをしたいのですが、よろしいですか」。避難してきた人たちに出したいと言う。「ガスを使わなくてもできるものがあると思います」
 貯水槽からの水は大丈夫だ。
 支配人は即答した。「やってくれ」
 中森次長は調理部へ走った。
「俺たち……社員の分は残しておくんだろう」社長の声が聞こえた。
 地震の前に炊いてあったご飯で、おにぎり。パンでサンドウィッチ。その他もう出来ている宴会用の料理などもあった。おにぎりは調理師よりパートのおばさんたちの方が上手かった。美沙もおにぎり造りを手伝った。一心に握った。
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