第24話 美沙

文字数 2,069文字

 美沙が社用ランチの件を取り上げるよう提案した頃、歩夢はボランティア活動を止めた。決めていた一ヶ月を過ぎたのと、復興事業も細かにわたるようになってきたからだ。ハローワークに行った日も、まっすぐ帰ってくる。
 部屋に歩夢がいる――。そう思うだけで美沙の心は休まる。それに歩夢は家事をいろいろしてくれる。でも、時間は余る。ある日書き物をしているのを見つけた。テーブルに原稿用紙が拡がっている。何をしているの? と訊くと、小説を書いていると言う。以前から書いていたのだが、地震でパソコンを壊したので、止めていたそうだ。
「手書き、不便でしょう。パソコンあるわよ。専門学校で使っていたの」
 そう言って、クローゼットの隅から出した。「ちょっと古い型だけど十分使えるはずよ」
 パソコンと付属品一式が入っている箱を歩夢に渡す。プリンタは後で手ごろなものを買えばいい。
 歩夢は箱から取り出している。
「あれ、外付けのテンキーボードもあるよ? 本体のテンキー、壊れているの?」
 歩夢はカバーを開けて観る。
「いや、壊れていないよ。あたしね、会社でも数字は外付けのテンキーボードで打っているの」
 と言い、なぞなぞみたいに、な~ぜだ? と訊く。
「えーと、そっちの方が使いやすいから?」
「ま、半分当たりね。数字は左手で打つからなの」
 美沙はテンキーボードを自分の方に寄せ、空打ちする。「フッフッフ、あたしね、甲子園に出たのよ」
「え、左利きじゃなかったよね」と言い、歩夢は美沙の手を見る。それと甲子園って関係ある? 歩夢は不思議な顔をしている。
 美沙の指の動きは滑らかだ。何度も握った手だが、綺麗な手だな、と思う。「甲子園って、野球部のマネージャーだった? 美沙の高校って野球強かったの?」

 高校――地元の商業高校へ入学すると、中学までやっていたバスケットボール部には入らなかった。大学受験もしないし、高校は楽しい放課後を過ごそうと考えていた。けれど何の部活にも入らないのはつまらないので、簿記会計部に入った。運動部と違って厳しい練習はないだろう。簿記検定にも有利だろうと思ったのだ。
 ところが目論見は外れた。
 入部当初から毎日、電卓の練習をさせられた。左手で。簿記の大会での入賞を目指しているのだ。左手で電卓を叩くのは、右腕――利き腕、は鉛筆を持ち、用紙をめくり、答えを書くために使うからだ。電卓はもちろんブラインドタッチ。速く、正確に。
「何とか甲子園って聞いたことない? 書道甲子園とか囲碁の甲子園とか」
 文化部の全国大会には甲子園の名がつくものが結構ある。
「あたし、簿記の甲子園に出場したの。うちの高校、北海道東北大会は常連校。そこで入賞すると全国大会」
 へぇー、歩夢は感心する。
「全国大会とはすごいじゃないか! 入賞したの?」
「まあね、個人戦は八位入賞。団体は選外だけど。さすが全国大会は強豪校だらけよ」
 この部活は競技だけでなく、実務も鍛えられる。美沙は、幾つかの簿記検定に合格した。簿記専門校に進んでからは、さらに高度な勉強をした。最もレベルの高い、N簿記の1級に受かった。税理士や公認会計士の試験までは受けなかったが、財務会計論、管理会計論は理解している。当然決算書を作り、読むことも出来る。
「決算書は会社の成績表みたいなものよ。経営判断をする元にもなるの……。あたしはそこまでの仕事はしていないけどね」
 歩夢は美沙を、料理が上手な優しい女性(ひと)だと――もちろん魅力的な女性だとも――思っていたが、こんな優れた能力があることを知って驚いた。
 その美沙の能力は、震災の後、一部活かされるようになった。
 経理課の先輩、山田さんが辞めたのだ。とても気の毒だった。ご主人は港近くにある倉庫会社に勤めていた。社屋ごと津波に襲われた。家も流された。幸い三人の子供たちは学校にいて無事だった。山田さんは、子供を連れて実家のある栃木に越して行った。その山田さんがしていた仕事の一部をすることになった。決算に関する仕事だ。
 勿体ないことに、今まで会社は美沙の優れた能力を使っていなかった。今でもまだ活かしきれていないが。

 歩夢はパソコンを使って小説書きに勤しんでいる。今まで書いていた何篇かは、データがパソコンごと壊れてしまった。筋は頭に残っているし、それまでの作品はたいして残念でないそうだ。だが今書いている物は乗っているとのこと。どんどん筆が進んでいる。読ませてちょうだい、と言ったが、
「ダメ、出来上がるまで待って。書きあがったら一番初めに美沙に読んでもらうから」と拒否された。パソコンを開いて、読もうと思えば読めるのだが待つことにした。
「読んだら感想を聞かせて」と言われた。文芸評などは苦手だが、
「いいわよ。あたしは辛口よ」と応えた。
「怖いな~」。歩夢はにっこり笑う。
 仕事を終えて部屋に帰れば、歩夢がいる。緩やかな会話がある。二人で食事をし、音楽を聴き、そして抱き合って眠る。この生活でいい、あたしは幸せだと、美沙は思う。でも、小さな不満――不安と言っていい――が、ある。
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