第39話 歩夢

文字数 1,437文字

 父親の居所が判った、と理沙が言った。
 福島県に居る。一緒に逃げた女性と共に温泉旅館に住込みで働いているそうだ。そもそも今頃判るというのは探そうとしていなかったからだ。どちらの家族も。市役所の住民課で調べれば判ったかも知れないのに。
 今回は一緒に逃げた女性が、女性の夫へ連絡をしてきたことから判った。夫の元へ帰りたいと言ってきたとのこと。その夫から歩夢の母親に連絡があった。女の夫は帰ってきたら正式に離婚するだけだ、と応えたらしい。
 歩夢も父親は帰ってこなくていいと思っている。家は人の手に渡り、母親は実家に身を寄せている。それに、先日コンテストに応募した小説は、父親が出て行ったことを素案にして書き始めたものだ。――会社の経営者だった男が堕落していく過程を描いている。
 一部父親に重なるその男の末路はアンハッピーなものだ。歩夢はそんな思いで父親を見ている。
 理沙が言うには、相手の女が夫の元に帰りたいと言ったことから二人の間は冷えたらしい。それでもまだ福島には居る。母は、女の夫とは違い、父親に帰ってもらいたいと言った。歩夢に迎えに行って欲しい言っている。仙台からなら近いからとの理由で。理沙のいる東京からだって左程かからないだろうに。
「お兄さん、どうする。迎えに行ける? 迎えというより連れ戻しに」と訊かれ、嫌だと思った。逢いたくない。
「どうするって、ぼくは嫌だな。理沙は帰ってきてもいいのか?」
「あたしたちのことでなく、お母さんの気持ちなのよ」
 そうか母が望んでいるんだ。たとえ帰ってきたてもぼくと一緒に住むわけでない。でも、行きたくない。
「お母さんは自分で行けないのか?」
「自分から行くのは怖いんだって」
 ぼくだって話をしたくない。それに、岐阜にいる母の処まで連れていくとしたら、二日は要するだろう。
「仕事に就いたばかりだし、休めないと思うよ」
 行けないと匂わせて、「ちょっと考えさせてくれ」と応えて電話を切った。途端、光談社からの電話が鳴った。

 吉永舞という女性編集者だ。はきはきと切れのある言い方をする。
「高橋歩夢さん。いえ、深田京介さん、お知らせです。応募いただいた『ある逃避』が、最終選考に残りました。六人の中の一人です」
 筆名の深田京介は応募する際浮かんだ名前だ。筆名を決める際、М大学文芸サークルの先輩、深田京さんが思い出されたので付けた名前だ。彼女は太宰治が好きだった。ある逃避は「恥の多い生涯を送って来ました。」で始まる有名な小説の影響も受けている。――仕事上の躓きから懈怠(けたい)に流れた男が女と心中を計り、相手だけが死亡。無理心中とみなされ殺人罪で裁きを受けるところで終わる。
「わたしは二次選考から深田さん作品を強く推している者です。荒削りですがいい作品です。賞に一番近いと思っています」
 少し間を置いて「最後に決めるのは審査員の先生方ですが」と言った。
 歩夢が、はい、え? はぁ、としか応えられないでいるうち、
「また連絡を差し上げます。いい連絡になることを願っています」と、電話が切れた。
歩夢は携帯を握ったまま、思考を失った。
「どうしたの?」
 美沙が訊く。立て続けにきた二本の電話への応対ぶりを見て心配している。「悪い話なの」
「うん……。いや……」
「え、どっち? いい話なの?」と、歩夢の顔をのぞき込む。
 美沙の顔を見たら、思考が戻った。歩夢の顔はにやけだした。
「美沙、凄いことになっている!」
 まさかがまさかだと言うなり、にやけ顔が笑い顔に変わった。
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