第21話 美沙

文字数 1,398文字

 あら、何これ。どうしたの? 仕事から帰ると、テーブルの上に見つけた。ケーキの箱だろう。
「おかえり」
 ガステーブルの汚れを掃除していた歩夢が、振り向いて言った。いつもいろいろな所を掃除してくれる。
 妹の理沙がお金を返してくれたので、ケーキは美沙へのお礼だと言う。それと封筒も一緒に寄こした。中には現金が入っている。
「美沙さんの厚意にはとても足りないけれど」
 神妙な顔で、受け取ってくださいと言う。
「ケーキは嬉しいけど、お金はいただけないわ。この前いただいたし」と美沙は断った。
「あれは食費です。これは感謝の気持ち。助けてもらわなかったら、ぼくはどうなっていたのか判らなかったんですよ」
 美沙は、そんな他人行儀なと、言いかけたが、他人なんだと苦笑した。押し問答になっては面白くないので、お金のことは置いておいて、ケーキはいただこう。箱を開けて見る。あまーい匂いが拡がる。
「わ、美味しそう。モンブラン、チーズケーキ、イチゴのタルト。いっぱいある。迷っちゃいそ」
 歩夢ははしゃいでいる美沙を笑って見ている。
「食後のお楽しみにしましょうね」
 美沙は箱を閉じて、封筒と一緒に脇へ寄せた。
 食事が済むと、美沙は紅茶を入れた。
「あたしイチゴのタルトね」
「ぼくはショートケーキにしよう」
 歩夢はケーキを皿に取る。
「歩夢くん、いただきま~す」
「どうぞ~」
「美味い!!」先に歩夢から出た。「料理を食べた後でも美味しいものは美味しいな」
 この人のこれがいいんだよな、でもこれだけで好きになった訳でない、と、美沙は思う。どこがいいのだろう? いや恋情に理屈はない。
 食べ終え、歩夢は食器をシンクに運ぶ。美沙が横に立つ。美沙が洗い、歩夢が拭く。手を動かしながら、さっきの話の続きになる。
「妹さんと、理沙さんと会えて嬉しかったでしょう」
「はい。ぼくが(かたく)なで、電話もメールも無視していたから心配かけてしまって。悪かったと反省しているんです」
「でも、元気に暮らしているんでしょう?」
「ええ、詳しいことは聞きませんでしたが。ぼくも言わなかったし。その、美沙さんと暮らしていることですが」 
 あら! 暮らしている、と言った。美沙は今の言葉にくすぐったい喜びを感じた。だが、次の言葉で、戻った。
「今まで美沙さんの親切に応えられなくて。何かお返しをしなければと思っていたので、お金が返ってきたので丁度良かった。ほんと、受け取ってください」
 と、テーブルの方を振り向いて封筒を目で示した。
 美沙はひと時黙った。少し考えて小さい決心をした。
「あのね、歩夢くん」と言って、美沙は布巾で手を拭いた。「親切だと思っているの?」
「え……?」
「お礼なんか返せないものがあるの……。分らない?」
 今度は歩夢が黙った。
 戸惑いの表情から真剣な表情に変わった。
 歩夢の唇が微かに動いた。分っていました、と言ったように美沙には見えた。
 並んでいる肩が触れる。目の前に歩夢の熱い眼差しがある。美沙は息苦しさと、けれど甘い期待に耐えきれず目を閉じた。二三秒後、唇が柔らかい感触に塞がれた。肩に歩夢の手がかかり、静かに抱き寄せられた。震えるほど嬉しかった。美沙の腕も歩夢の背に回った。
 その夜、二人は抱き合って眠った。――次の日からも。

 美沙は、結局あのお金を貰うことにした。「使い道はあたしの自由にさせて」と、条件を付けた。それで歩夢の寝間着と枕、衣類を買った。
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