第53話 歩夢

文字数 2,244文字

 深田さんからの電話は夜八時半にきた。
 遅いので、忘れているのかなと心配したり、仕事だろうと思ったり、落ち着かなかった。夕食時、美沙に吉永さんとの話を説明しているときも無意識に携帯に目がいく。
「応援してくれるのは、やはり歩夢に才能あるからなのよ。いい小説書いてね」
 美沙は新たな展開を励ましてくれる。
 二人で食器を洗っているときにテーブルの上の携帯が鳴った。着信音は違うのだが、美沙も振り向いた。歩夢は手を拭いて、取る。表示を見て表情が崩れたのが自分でも判る。
「ああ、古い友人からだ」
 食器洗いごめんと、美沙に断って隣――ベッドのある部屋――へ移る。
「はいこんばんわ、高橋です」
「こんばんは。今、仕事終えて帰ってきたところ」
「大変だね、でも新聞社の仕事って活気があって、楽しそう」
 歩夢がそう言ったのをきっかけに、深田さんは自分のことから話しだした。
 入社して研修を受けた後、配属は地方からになる。それならばと、太宰治の生誕の地、青森を希望して配属になった。配属といっても先輩に着いての研修の続きのようなものだ。ゆくゆくは文化部の記者をやりたいが、支局では何でもやらないといけない。歩夢が言ったとおり大変だが、楽しいと言う。
 青森にいるうちに太宰治の痕跡を隈なく尋ねるつもりだ。記念館になっている生家は学生時代に一度見学しているが、赴任してからも二度行ってきたそうだ。
 深田さんの太宰好きは変わっていない。話は太宰の文学ことに及んだ。M大文芸サークルのときのように。歩夢は久しぶりにその頃の楽しい気分に浸った。
「高橋くん、大学中退してからも書いていたのね。そうでなければ、あんないい作品を書けないわ」
「ええ、仕事が終わってからだけど」
「あたしもなのよ。なかなか時間がとれないので少しずつ。でも、六作は書いたかな」
「それ、読んでみたいな」
「いいわよ。批評してちょうだい。厳しく」フフフと笑う。
「そんな、厳しくだなんて。先輩に」
「小説に先輩も後輩もないでしょ。高橋くんの方が一歩も二歩も進んでいるわよ」
 気が付いたら、三十分近くも話している。美沙がドアを開けて覗く。まだ話し中なので驚いた表情を見せてドアを閉めた。
「あ、長くなったな。深田さん食事まだなんでしょう?」
 もっと話していたいのだが、美沙に都合が悪くなった。
「そう、これから。初めての一人暮らしだから自炊が大変。高橋くんもでしょ」
「うん」。こう応えるしかない。
「深田さんのこと懐かしくて、つい長くなっちゃった」
「高橋くんのこと何も聞いていないわね」
「そうさね。でも、次にしようか、ゆっくり電話できる日に」
「それもいいけど……、会ってみたいな。実家に帰る途中仙台に寄ってもいいし。あ、明後日、東京へ帰るんだけど高橋くん仕事?」
 ん、会いたいって言った! もちろんぼくもだ。明後日? くっ、仕事だ。
「うー、残念だけど仕事」と、言って気が付いた。遅番だ。いけるかも。
「あの、ぼく十二時出勤だけど、東京へは新幹線ですか」
「わー、会えるよ。仙台が九時か十時ころの新幹線に乗る。駅で会いましょう」
 思わぬ展開に口元を緩めてリビングに戻ると、美沙はヘッドホンを使って音楽を聴いていた。歩夢を見るとヘッドホンを外した。
「長くなったな。古い友人なので懐かしくって。あいつ昔から長話なんだよ」
 と、美沙にいい訳じみたことを言った。
「これこれ、読んでみて」
 電話のことを訊かれる前に、光談社に寄せられた感想文を見せた。深田さんのものを除いて――。美沙は感心しながら一つずつ読んでいく。一度読んだものだが、歩夢も読み直す。笑顔は崩れないままだ。

 二日後、仙台駅構内のコーヒーショップで深田さんと会った。深田さんは学生時代と変わらず化粧っけが薄い。ただ、やたら元気で明るくなった。大学時代は憧れの存在だったが、親しみやすくなったと思った。
 でもそれだけが理由でない。歩夢も変わったのだ。大学中退後いろいろな人と関わったことで。自分の近くに女性がいる、ということを知ったことも。
「筆名あたしの名前からとってくれたのね、光栄だわ。ありがとう」
 歩夢はその理由を訊かれるかと構えた。訊かれたら、深田さんはぼくの憧れだったので、と応えようと思っていた。
 だが、それはなく、「あ、それと――」と言ってリュックからプリントされた用紙の束を出した。
「これあたしが書いたの。二作持ってきたわ」
「わ、早速持ってきてくれたんだ」
 構えていたので気が抜けたが、忘れず持ってきてくれたのは嬉しかった。
「自分が気に入っている上位二作。まだ手を入れるかもしれないけど」
「帰ったら真っ先に読むよ」
「嬉しい。趣味で書いたものだから期待しないでね」
「いや、期待しちゃうよ」
 それから歩夢は、中退した後のことを話した。深刻にならないように気を付けて。
 美沙のことは話さなかった。吉永さんにもそうした。話しにくい。食費他もろもろは負担しているのだが、美沙に助けられている、と思われたくない。石原さんにも言ってない。
 ――だが、別の理由もあることを歩夢は覚えていた。
 出勤までの許された時間はあっという間に過ぎた。光談社から依頼された話の途中で席を立つ時間になった。
「楽しかったー。また東京へ帰るとき、こうして会いましょ」
 ああ、仙台の街も巡りたいな。何時(いつ)か案内してちょうだい。深田さんのその言葉で別れた。
 大学時代は控えめだった深田さんが、すっと要求の言葉を発するようになったのにも歩夢は驚いた。
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