第19話 美沙

文字数 1,951文字

 (おび)えている。このまま歩夢が帰って来ないのではないかと。歩夢に行き先が無いのは解っているけれど――。
 失いたくない?
 失うも何も、歩夢を住まわせているだけでしょう。好き合っている訳でもないし。
 同情が愛情に変わったの?
 違う、変わったのではない。当初から恋愛感情を抱いていた。本当は、気づいていた。

 恋愛の経験はある。
 塩崎純一とは簿記専門学校二年のとき、合コンで知り合った。TH大学の四年生。TH大学は旧帝大、日本有数の難関大学だ。
 簿記専門学校の同期たちは、堅い人ばかりだろうね、と言いながら合コンに臨んだ。が、面白い人が多かった。純一もその一人だった。話が合い、電話番号を交換した。数日後、映画に誘われ、つきあいが始まった。物知りでいろいろ教えてくれる。理解できない難しい話もあったが、聞いているだけで楽しかった。三度目のデートのとき、おしゃれなカフェで食事をした。素敵なひとときだった。店を出るとき、ぼくの部屋に来る? と言われた。うん、と応えた。
 それからのデートは毎回純一の部屋へ行くようになった。二人が卒業するまで。
 一緒にいると楽しいし、好きだったことは嘘でない。おそらく純一も。だが、あたしたち結ばれないだろう、いずれ別れることになるだろうと思っていた。
 純一は厚生労働省に就職が決まっていた。キャリア官僚だという。勤務地は東京。美沙は仙台。キャリア官僚がどういうものなのか純一が教えてくれた。それを聞いて、誇らしさと、同時に距離を感じた。
 卒業が近づいても「一緒に来てくれ」とは言われなかった。言われるとも思っていなかったが。遠距離恋愛にもならないだろう。
「知り合えて良かった」と言って純一は東京へ行った。でも、恋の終わり「別れ」は口にしていない。その後も細く繋がっていた。たまにメールで近況を知らせてくる。が、逢いに行くとか、逢いに来い、の言葉はなかった。美沙もメールに返信するだけ。逢いに来いと言われれば行ったとは思うが。キャリア官僚に相応(ふさわ)しい女性(ひと)にはなれないと思っていた。一年を過ぎた頃からメールも少なくなり、次第に純一のことを考えなくなった。それを悲しいと思わなかった。
 恋愛中からも純一との「別れ」を恐れて(・・・)いなかった。

 卒業してから――つまり美沙がホテル・セントラルフォレストに勤めてから――二年ほど経ったころ、純一から電話があった。出張で仙台に来ている。二日にわたる仕事なので今晩は仙台泊まりだ、食事をしないかと言う。潜んでいた慕情が突然浮き出てきた。仕事から帰り、アパートに着いて一息ついていたときだ。身支度ももどかしく、胸をわくわくさせて指定された店へ行った。以前よく使っていた居酒屋。以前と同じ席に純一は居た。懐かしかった。純一はにっこり笑って迎えた。落ち着いた話し方になっている。少し変わったな。役人が板についてきたのか。
 ゆっくり話をしたかったが、急かされて食事をした感じだった。食事の後、ぼくの泊まっているホテルに来ないか、と誘われた。以前似たシチュエーションがあったなと思いながら、頷いた。タクシーの中で、
「美沙のホテルの売り上げに貢献できずゴメン。まだ高級ホテルに泊まれるほど旅費が出ないんだよ」と笑った。
 それでも、全国展開している名の通ったホテルだった。
 着くと純一は「二三分遅れて来てくれる」と、部屋番号をおしえ、鍵を貰って先に部屋に行った。その間美沙はフロントから見えない処にいるよう言われた。
 美沙は小さな不信感を抱きエレベータに乗った。
 部屋はシングルルームだった。あんなややこしいことをしたのはこれだった。
 シングルを二人で使うのが、違反なのを知ってのことだ。ツインかダブルに替えてもらえばいいのに。学生時代ならまだしも、立派な社会人なのに。残念に思うより自分が安く扱われたようで寂しくなった。会話もそこそこに、シャワーを使おうと促された。そして、以前のような時間を過ごしたが、電話をもらったときのわくわく感は萎えていた。
「明日早いんだ」
 終えると純一は言った。暗に帰ってくれと言っている。言われなくても帰るつもりだった。下りのエレベータで美沙は惨めさで涙が出そうになった。
 純一があたしに電話を寄こしたのはこれが目的だったの? あたしを何だと思っているの。まるで、何かの代り? なんていったけ、そう派遣型風俗――。嫌だ、イヤだ。

 それから半年後。残業をしていると純一からまた電話があった。
「出張で来ているんだ。ぼくの部屋に来ないか?」と言って、ビジネスホテルの名をあげた。カーッと、頭に血が上った。
「ばかにしないでよっ」と、どなって電話を切った。細く繋がっていた糸が音を立てて切れた。
 数少ない美沙の恋。最後の恋は最悪の終わり方をした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み