第17話 美沙

文字数 1,171文字

 美沙は退社時間が待ちどおしかった。バスを降り、途中のスーパーに寄る。仕事中に考えていた献立の材料を買ってアパートに帰った。来ないのではないか? と小さな不安を持ちながらキッチンに立つ。ほどなくしてドアチャイムが鳴った。来たわ。
 献立は、餃子と鯖の塩焼き。
 今日は手伝わなくていい、と言い調理を続ける。仕事が見つかったか気になったが、訊かないでいた。歩夢からも言ってこない。
 食事をしている歩夢を見るのはやはり楽しい。美味しいと言ってくれる。でも昨日とは少し違う。弾むような言い方がない。何かを考えてようだ。
 我慢できず美沙は訊いた。
「いい仕事なかったの?」
「いい仕事というより、求人そのものが少なくて」と言う。
 美沙も簡単に見つかるとは思っていなかった。
 最後のヨーグルトを食べるころ、歩夢から言葉が出なくなった。
 口数の少ない歩夢を見るのは寂しい。
「気を取り直して明日からもまた探そうよ。ハローワークの人、親切に教えてくれるんでしょう?」と美沙が問うと、歩夢から出た言葉は、予期したものとは見当が外れていた。
 中町荘から出なければいけなくなったこと、住込みの仕事もない。避難所で生活するしかないと言った。
 美沙は言葉を失った。
 ようやく、
「そんな、不自由な、生活を」と言うだけで、また言葉が出なくなった。
「明日、市役所で聞いてきます」と言う歩夢に美沙は、
「市役所なんか行かなくていい。……もう、そんな、辛い思いを、しないで」
 いいの、ここに住めばいいのよ、と言っていた。涙と共に。

 歩夢はハローワークに寄って求人情報を見てから、ボランティア活動をするのが日課になっていた。
 毎日疲れて帰ってくる。
「おかえり」と、それを迎える美沙は奇妙な幸福感の中にいた。
 ここに住めばいいと言った翌日――初めてボランティア活動に行った日のことを思い出す。チャイムが鳴ってドアを開けると、歩夢が立っている。
 え、どうしたの?
「こんばんわ」と言えばいいのか、「ただいま」と言えばいいのか迷ったのだそうだ。
「ただいまでいいんじゃない」
「それじゃ、ただいま」
「おかえり」と言って、美沙は笑ってしまった。「それじゃ、は要らないでしょ」
 歩夢は衣類と数冊の本、それと寝袋を持って来た。それ以外のものは中町荘に残してきた。惜しくはない物なので建物の解体と共に処分されてもいいそうだ。寝袋は新たに買ったものだ。それでダイニングルームで寝ている。布団は嵩張るし邪魔になると思い、持ってこなかったとのこと。
 美沙は、どう寝るかまで考えていなかった。と、言えば嘘になる。なんとなく、二人でベッドを使うことになるのだろうと思っていた。そういう欲望があったわけでない。
 だが、五日間――、一緒に住んでいてこの状態は落ち着かない。
 美沙はこれから歩夢とどうしていけばいいのだろうか。
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