第61話 歩夢

文字数 2,430文字

 反対されるだろうと思っていた。別に暮らしたいと美沙に言うとき。だが歩夢の話を聴いてすんなり了解してくれた。むしろ積極的に手伝ってくれた。そのおかげもあって引っ越しから部屋の整理まで休みの一日で済んだ。美沙が食器や調理器具を選んでくれたので買い物もスムーズに出来た。
 その店で、美沙が駆け寄った女性を、歩夢はすぐ思い出した。ホテルで働いていた人だ。美沙は「さきえ」と呼んでいた。そうだ山下さんだ。彼女には、ホテルを去る日に食事を誘われた。それを無視して美沙のアパートへ行ったのだ。山下さんに誘われたことで美沙のことが胸に拡がり、美沙のアパートへ向ったのだ。無視されたのだから自分にいい感情は持っていないだろうと思ったが、普通に話しかけてきた。
 山下さんと美沙の出会劇は奇妙な形ですぐ終了した。美沙は残念がっていたが、山下さんはこの後は会う気はないようだ。歩夢は、やはり自分のせいかな、と思った。
 考えてみると、山下さんは美沙と暮らすきっかけを作ってくれた人だ。両人はそれと知らずに……。ま、あまり考えないことにしよう。

 引っ越ししてからは炊事や掃除など家事が増えたが、もとよりそのつもりだったので苦にならない。でも美沙は料理を造るに来る気満々だ。週一くらいそういう日があっていいだろう。それにしても、いざ別れて暮らす日の、美沙の仕草の可愛かったこと。引っ越し前夜は泣き、当日はさよならのときに突然キスしてきたり……。
 こんなに可愛い「恋人」がいるのに、歩夢は他の女性が気になっている。別に暮らしたいと思った理由の一つにそれがあった。
 深田さんと電話するときや逢うときに、美沙に気を遣う不自由さ。
 でも一番の理由は、このまま美沙と暮らしていくその先を考えたからだ。美沙のことは好きだが、まだ一人の女性に縛られる気にはならない。美沙の気持ちは解っている。我儘かな、とも思うが。

 十五ヶ月ぶりに一人で暮らしてみて、静かなことに驚いた。ここひと月は前のアパートでも美沙は音を出さないようにしてくれていたが、それとは違う静かさだ。室外からの音はあるが、人の気配、空気の揺らめきがない。その中でパソコンに向かうと()が進む。昨日は、気が付くと空が白めいていた。美沙の部屋にいたときの五六日分くらいを書けた。
 美沙からは毎日メールがくる。返事は丁寧にしている。あまりちゃんとした食事を摂っていないことが判ると、料理を造ってあげるという。ま、そろそろとは思っていたが、早番の日を待った。
 二日後、美沙は材料を持ってやって来た。
「歩夢は小説書いてていいわよ」と言うが、パソコンを使うテーブルが、調理台の傍でなので書けるわけがない。もともと今日は書くのを休もうと思ってはいた。
 そのことを言って「ぼくも手伝うよ。何すればいい?」と美沙の隣に立った。
「そうね、それじゃ人参とジャガイモを洗って、皮むきをお願い」
「今日の料理は何かな?」
 歩夢は野菜を洗いながら訊く。
 肉じゃが。エビチリ。ゆで卵とベーコンのライスグラタン。セロリと胡瓜のステック、と美沙は応える。そのとき、にやりと笑ったのを歩夢は気づかなかった。歩夢は忘れているが、これらの料理は、歩夢の方から、初めて美沙のアパートを訪ねたときに造ってくれたものだ。
 ――そう、山下咲江の誘いを無視したときだ。
 食事をしながらの美沙はよくしゃべった。ほぼ一週間ぶりだからなのか、歩夢は聴くのも観る(・・)のも新鮮に感じた。
 そうなんだ! 離れて暮らした方がいいんだ。もっと早く、別に暮らしていれば良かった。そう思っていると、美沙は歩夢の眼差しに気づいて話を止めた。
「なに? 変な目で観てる。いえ、変でなくて……」
「あ、ごめん。なんか見惚れてしまった」
 歩夢は、応えてから自分の言葉に驚いた。こんなことを口に出したのは何時だったろう? そうだ、実家に帰る美沙を仙台駅に送ったときだ。――美沙好きだよ、と言ったとき以来。
「何? え、嬉し……」
 美沙の頬が紅く染まった。何か言おうと言葉を探している。
 歩夢も一瞬、言葉が止まった。
 え、照れている?
 そんな自分を隠すつもりで、メールで知らせてきたことを訊いた。
「美沙、聞きたいんだけど」
「あ、あたしばかり話していたからね。ごめん。何、なに?」
「あのね、来月から企画広報課へ移るというのはどうして? 美沙は経理が得意なのに」
「あたしもそう思うし、課長も次長も反対したらしいのだけど、中森部長がどうしてもって」
「へえー、中森部長が? ふう~ん、気に入られているんだね」
 歩夢は拗ねる振りをした。いや、実際少し妬けた。
「やだ、部長は奥さんを亡くしたばかりよ。きっと前にビアガーデンの企画を訊かれて、それに応えたからだと思うよ」
 それは――。
 以前中森部長から、今年のビアガーデンに何か企画はないか? いい案を思いついたらおしえてくれ、と問われていた。それで思い出したのが、歩夢から聞いた文盛堂の飲み会。初めビールだが、あと日本酒に替える男性が多いということだ。特に年配の男性に。
 それで提案したのが、メニューに日本酒も加えてはどうか。料理メニューにも日本酒に合うものを、と――。
 その案は、取り入れられ、実施されている。山田課長も美沙の提案であることを知っている。だが、そのことだけで中森部長が動いたのでないそうだ。美沙は、経理だけに留めておくには惜しい人材だ。ホテル・セントラルフォレストの経営に活かしていこうと。
「異動の話は、初め戸惑ったけど」
 でも、あたしを買ってくれたことは嬉しかったと、顔をほころばせた。
 その後は、あまり会話は弾まなかった。何かを急いでいるように――。
 食事を終え、二人並んで流し台に立つ。美沙が洗い、歩夢が拭く。前と同じだ。違うのは、食器を仕舞った後だ。歩夢が美沙の腕を引き寄せると、美沙は少し驚いた表情を見せたが抵抗せずすぐ胸に体を預けてきた。二人はそのままベッドに行った。
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