第62話 歩夢
文字数 1,841文字
その夜美沙は泊まっていかなかった。
歩夢は、泊まるよう話したし美沙も少しの時間そう考えたようだが、翌朝の歩夢のアパート近くからのバスの便が良くない。美沙の「コーポひまわり」へ寄ると出勤時間に間に合わない。退勤時のままの服装でここへ来たので、そのまま出勤するのもためらわれる。
ということで、美沙はその夜のうちにアパートに帰ることにした。遅い時間なので、歩夢が大通りまで送って行った。並んで歩きながら歩夢は、これからは美沙との時間をあまり持てないだろうな、と思った。でも、それはそれで構わないとも思った。まだ数日だが、一人で暮らしてみて何かから解放されたような気持ちになったことを覚えていた――それは、自分で自分を縛っていたものだろう――からだ。
翌朝の出勤途中、前を歩いている石原さんに気付いた。自転車の速度を落としてお早うございます、と声をかけた。
「あ、おはよう。あれ? 高橋くんこっちだっけ」驚いた様子で返してきた。
美沙の部屋から通っているときは方向が合わなかったので一緒になることがなかったのだ。
「ええ、引っ越ししたんです」
歩夢は自転車を降りて、並んで歩きだした。
「ああそうなんだ。二人とも?」
「え? いや、一人ですが……」と言って、理解した。美沙と住んでいたことを知られていたのか。
「あ、いえね。ある人から聞いたんだけど、高橋くんはきれいな女性と暮らしているらしいって」
歩夢は顔が赤くなるのを感じた。
石原さんには、知られないでいたかった。動揺しているのが自分で判る。
「あ、文盛堂の人たちは知らないはずだから。それと、あたしに知らせてくれた人はそんなにおしゃべりじゃないし」
「そうですか……」
「あたしもおしゃべりじゃないし」
と、言ってから「いや、少しおしゃべりかな? だけど、わきまえている。このことは言っていないよ」
石原さんは、おどけたような、真面目なような顔をした。
歩夢はどう反応していいか判らなかった。
もしかしたらあの時にはもう知っていたのか。――あの時とは、石原さんと居酒屋で飲んだ時、互いを下の名前で呼んでいいか、と言った時だ。歩夢にとっては『好意』の告白のつもりだった。
自分のまぬけさにますます恥ずかしくなる。あれ? でも、知らせた人って誰だろう。石原さんとぼくの共通の知人って、文盛堂の人しかいないと思うけど……。そう考えたがとりあえず、今は一人暮らしだと話さないといけない。
「あの、引っ越ししたのはぼくだけなんです」
「あら! やっぱり……、暮らしていたんだ。その女性と」
で、つまり、別れたってことかしら? そう言ってから慌てたように「ごめん、立ち入ったことを訊いてしまったね」
「いや、そうでないんです」
変に誤解されたくないので、話したほうがいいな。どう話そうか。――歩夢は誤解を解くと思っているが、傍から見れば言い訳になることに気付かない。
言葉を選んでいるうちに、店が見えてきた。
「あとで話します」
「そう? あたし野暮じゃないから、心配しないで」
違うんだ。聞いてもらいたいのだ、石原さんに。
でもその日は話せなかった。休み時間もずれていたし、石原さんは終業後すぐ帰ってしまった。慌てた様子でそそくさと。普通であればそんな石原さんを大いに気に掛けるのだが、その時の歩夢にそれはなかった。別の案件が起きたからだ。特別 の案件が。
――この時、歩夢は知る由もなかった。もう石原さんの誤解を解く機会がないことを――。
昼休みにスマホを観ると深田さんからメールが入っていた。
<今晩電話したいけど、大丈夫ですか。何時なら都合いい?>
歩夢は胸が高鳴った。八時過ぎなら何時でもいいです、と打ってみたが、途中で思い直した。
<九時から十時の間が都合がいいですが、よろしいですか?>
そう送らないと八時からずーっと、今か今かと待ち続けることになるだろう。自分のことが何も出来なくなると思ったのだ。
<事件でも起こらない限り九時には出来ると思います。それではヨロシク!>
と、返信があった。
歩夢は心が浮き立つのを覚えた。さっきまで石原さんのことが占めていたのに……。何なんだろう? そして……、昨夜愛しあった美沙のことも小さな存在としか思えなくなっている自分に驚いた。
いや、驚いたというのは嘘だ。歩夢は自覚していた。
深田さん。
石原さん。
美沙。
歩夢の中にある、この序列。でも、そんな自分を疎ましいとさえ思わないほど気持ちが高揚していた。
歩夢は、泊まるよう話したし美沙も少しの時間そう考えたようだが、翌朝の歩夢のアパート近くからのバスの便が良くない。美沙の「コーポひまわり」へ寄ると出勤時間に間に合わない。退勤時のままの服装でここへ来たので、そのまま出勤するのもためらわれる。
ということで、美沙はその夜のうちにアパートに帰ることにした。遅い時間なので、歩夢が大通りまで送って行った。並んで歩きながら歩夢は、これからは美沙との時間をあまり持てないだろうな、と思った。でも、それはそれで構わないとも思った。まだ数日だが、一人で暮らしてみて何かから解放されたような気持ちになったことを覚えていた――それは、自分で自分を縛っていたものだろう――からだ。
翌朝の出勤途中、前を歩いている石原さんに気付いた。自転車の速度を落としてお早うございます、と声をかけた。
「あ、おはよう。あれ? 高橋くんこっちだっけ」驚いた様子で返してきた。
美沙の部屋から通っているときは方向が合わなかったので一緒になることがなかったのだ。
「ええ、引っ越ししたんです」
歩夢は自転車を降りて、並んで歩きだした。
「ああそうなんだ。二人とも?」
「え? いや、一人ですが……」と言って、理解した。美沙と住んでいたことを知られていたのか。
「あ、いえね。ある人から聞いたんだけど、高橋くんはきれいな女性と暮らしているらしいって」
歩夢は顔が赤くなるのを感じた。
石原さんには、知られないでいたかった。動揺しているのが自分で判る。
「あ、文盛堂の人たちは知らないはずだから。それと、あたしに知らせてくれた人はそんなにおしゃべりじゃないし」
「そうですか……」
「あたしもおしゃべりじゃないし」
と、言ってから「いや、少しおしゃべりかな? だけど、わきまえている。このことは言っていないよ」
石原さんは、おどけたような、真面目なような顔をした。
歩夢はどう反応していいか判らなかった。
もしかしたらあの時にはもう知っていたのか。――あの時とは、石原さんと居酒屋で飲んだ時、互いを下の名前で呼んでいいか、と言った時だ。歩夢にとっては『好意』の告白のつもりだった。
自分のまぬけさにますます恥ずかしくなる。あれ? でも、知らせた人って誰だろう。石原さんとぼくの共通の知人って、文盛堂の人しかいないと思うけど……。そう考えたがとりあえず、今は一人暮らしだと話さないといけない。
「あの、引っ越ししたのはぼくだけなんです」
「あら! やっぱり……、暮らしていたんだ。その女性と」
で、つまり、別れたってことかしら? そう言ってから慌てたように「ごめん、立ち入ったことを訊いてしまったね」
「いや、そうでないんです」
変に誤解されたくないので、話したほうがいいな。どう話そうか。――歩夢は誤解を解くと思っているが、傍から見れば言い訳になることに気付かない。
言葉を選んでいるうちに、店が見えてきた。
「あとで話します」
「そう? あたし野暮じゃないから、心配しないで」
違うんだ。聞いてもらいたいのだ、石原さんに。
でもその日は話せなかった。休み時間もずれていたし、石原さんは終業後すぐ帰ってしまった。慌てた様子でそそくさと。普通であればそんな石原さんを大いに気に掛けるのだが、その時の歩夢にそれはなかった。別の案件が起きたからだ。
――この時、歩夢は知る由もなかった。もう石原さんの誤解を解く機会がないことを――。
昼休みにスマホを観ると深田さんからメールが入っていた。
<今晩電話したいけど、大丈夫ですか。何時なら都合いい?>
歩夢は胸が高鳴った。八時過ぎなら何時でもいいです、と打ってみたが、途中で思い直した。
<九時から十時の間が都合がいいですが、よろしいですか?>
そう送らないと八時からずーっと、今か今かと待ち続けることになるだろう。自分のことが何も出来なくなると思ったのだ。
<事件でも起こらない限り九時には出来ると思います。それではヨロシク!>
と、返信があった。
歩夢は心が浮き立つのを覚えた。さっきまで石原さんのことが占めていたのに……。何なんだろう? そして……、昨夜愛しあった美沙のことも小さな存在としか思えなくなっている自分に驚いた。
いや、驚いたというのは嘘だ。歩夢は自覚していた。
深田さん。
石原さん。
美沙。
歩夢の中にある、この序列。でも、そんな自分を疎ましいとさえ思わないほど気持ちが高揚していた。