第58話 歩夢

文字数 1,249文字

 歩夢が書いているのは、『ある逃避』の派生作品二作。うち一つは『ある逃避』の主人公、中野惟忠の娘、麻沙美を、もう一作は息子、忠一を主人公にするものだ。読者からの感想文でこの二人のキャラに人気が集まったからと、光談社から求められたのだ。今は、忠一の方を書いている。主人公の生い立ちは歩夢の経験も活かして書いてみるよう、吉永さんから言われている。物語の展開もまとまっているので、書くには書ける。だがその文章がチープに見えるのだ。書き直すが満足できない。
 吉永さんから進捗状況を問う電話があったのは、美沙が新部長の歓迎会に参加して遅くなった日だった。簡単な夕食を済ませて、パソコンに向かったとき携帯が鳴った。
「どう、進んでいる?」
「ちょっとスランプです」正直に応えた。「なかなかうまく書けません」
「まあ、どうしたの」
「文章が気に入らないというか、上手くいかないのです」
「うーん、なんだろう。あまり力まないで書いてみたら。若いんだから、書きなぐるくらいでもいいのよ。粗削りな文章もあなたの良さの一つよ。自分が気に入るとか、気に入らないとかはまだ考えないで。良いか、そうでないかは、私が見るから」
「書きなぐる、のですか?」
「そう、今は上手く書こうとしなくてもいい。勢いをつけること。あなたには表現力はあるのだからいいのが出来るわよ」
「はあ」
「気に入らなかったら後で直せるし。……ま、でも気分転換はしてもいいかな。そうね、三日ほど何も書かないでいてごらん。好きな作家の本でも読んで」
 そういえば本を読んでいないな。
「三日も休めば、きっと、書きたくてうずうずしてくるから」
「はい、やってみます」
 吉永さんのアドバイスにもやもやした気持ちが晴れた。有能な編集者は未熟な書き手をこうして導くのか。
「そのうち、あなたの処へ行くから。あなたがどのように書いているか観させてちょうだい」
「あ、はい。え?」
 歩夢は返答に窮していたが、それじゃ頑張ってねと言って電話を切った。
 ここに来るのか。どうしよう、美沙のこと。そのときは外出してもらうか。あー、でも部屋をみれば判るだろうな。女性と暮らしていることが知れたらどう思うだろうか。心証が悪くなるだろうな。かと言って、どうすることもできないし……。
 思い悩んだが、吉永さんのアドバイスどおり三日間休むことにした。
 一度読んだものだが短編集を手に取って、ソファーに掛ける。やっぱりいいな、ゆっくり本を読むのは。
 しばらくすると美沙が帰ってきた。
 おかえり、と迎え、二三話しをして、再び本に目を落とした。
 ……小説書かないの、と聞こえた。一瞬誰が言ったのか判らなかった。え、美沙か。吉永さんでさえ休みなさいと言ってくれているのに、何を。口出ししているんだ。そう思ったが、美沙はつい口を滑らせたようだ。ごめんと言ったし、怒るほどでないので収めた。
 だが、歩夢が心の内に覆っていたものが、じわりと動いた。
 このまま美沙と暮らしていて、いいのか――。

 次の休日、歩夢は不動産屋を巡った。
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