第45話 歩夢

文字数 1,262文字

 美沙には(やま)しい気持ちを持ってしまう。美沙以外の女性が心の一部を占めていることに。一方で、別にどうってことないだろうとも考える。石原さんと何かあった訳でもないし。小説でも複数の女を想う男を描いてきた。
 美沙には今までと同じように接している。美沙から心は離れていないのだから可笑しくない。
 月が替わった。春とは名ばかりの雪交じりの寒い日、歩夢が遅番を終えて帰ると、美沙がにこにこ笑って迎えた。暖かい部屋と美沙の笑顔は、歩夢の体と心の力をふわりと抜けさせる。
「歩夢、目をつぶって」
 ダウンジャケットを脱ぐか脱がないうちに美沙が言う。
「何? なにさ」
「いいから、言うとおりにして」
 半ば命令口調だ。
「わかりました」
 歩夢は言われとおり目をつぶった。カサコソと音がする。
「はい、目を開いて」
 開けると、目の前に梱包された小さな荷物がある。厚さ四五センチの箱型。歩夢はもしや? と思ったが、「何だいこれ?」と不審そうな顔をしてみせた。
「では、送り状の依頼主を読みます」
 美沙のいたずらっぽい目が歩夢から荷物へ移る。
「東京都BK区O町」少し間をおいて「光談社!」と言って差し出した。
「文芸光談! 発刊されたんだ」
 発売日は明後日だ。先に送ってくれたのだ。
「ね、早く見よう」
 準備よく、カッターナイフを用意している。丁寧に梱包を解き雑誌を取り出した。
 自分の文章が活字になるのは、高校の新聞、生徒会誌でもあったが、全国に販売される商業誌は感激が違う。歩夢はソファーにかけて、ページを開いた。美沙も横に座った。二人は顔を寄せ合って読んだ。肩と肩がくっつく。
 原稿で何度も読んだ文章だが、二人で活字を追っていく。喜びが沸き上がる。美沙は時折、歩夢に目を向け微笑む。――あぁ、いいな。
 このときは歩夢の心に石原さんはいなかった。

「文芸光談」が文盛堂書店にも陳列された。前もってPOPを作っていた石原さんは早速それを飾った。歩夢にしてみれば気恥ずかしいフレーズが掲げられている。
「太宰を追う、深田京介こと文盛堂社員高橋歩夢――
          彼の作品が載っています。立ち読みしていって!」
「青葉城店の高橋店員=深田京介の処女作、『ある逃避』
          文芸光談の88ページから。立ち読み歓迎!」
 歩夢の写真まで貼ってある。このようなPOPが全六店舗に掲示されている。しかもリピテーション陳列――複数の場所に陳列――されている。文芸誌では無いことだ。倍賞専務の計らいだ。有り難いが他の本の陳列が少なくなる。いいのかな、と思ってしまう。歩夢はなるべくその売り場から離れるようにして仕事をしていたが、常連客は他の店員に訊いてわざわざ歩夢を見に来る。声をかける客もいる。
 石原さんは、
「深田京介さん! もっと売り込みなさいよ。逃げていないで」と叱っているのか、からかっているのか判らないことを言ってくる。
 そんな言葉でも自分に向けられると胸がときめく。これは、美沙に抱いたのとは違う感覚だ。
 美沙にはこのようなときめきを覚えたことがなかった。
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