第4話 美沙

文字数 2,286文字

 入社して部署が経理課に決まってから仕事のほとんどは、経理課の先輩山田主任から教えてもらった。仕事を熟知しているし、年齢からももっと上の役職に付いてもいいのだが、小学中学と三人の子供を持っている共働きの主婦なので決算のとき以外には残業はしない。他の業務もしないので主任から上に昇らない。本人もそれでいいらしい。総務部長を兼務している支配人も、卒なく仕事をこなす山田さんにはうるさく言わない。
 一番仲がいいのは、人事課の山下咲江。入社は一年後だが、大卒なので齢は一つ上。年齢が近いのでよく話す。開放的な性格で、明け透けにものを言うちょっと心配な一面がある。今、社内恋愛をしている。近いうち結婚をするのではないか。
 経理課長は、そろそろ定年のしょぼいおじさん。子供二人を東京の私大、しかも理系へやっていて(すね)が細くなってしまったと聞いた。定年後は再雇用してもらいたいらしい。
 ときどき話しかけてくれるのは、隣の島、管理課の成田課長。髪がかなり後退しているが、身だしなみはきちっとしている。彼はと言うより、フロントはじめ皆きちっとしているのだが。
 美沙は周りと軋轢もなく仕事に慣れていき二年を過ごした。
 ある日――。
「美沙ちゃん」と、成田課長に呼ばれて、振り向いた。課長の席は美沙の斜め後ろ。いつもは課長との間に背中合わせに管理課の課員がいるのだが、今日は誰もいない。「美沙ちゃんはこのホテルを利用したことがある?」と訊いてきた。
「入社が内定したとき、両親と『ラ・メール』で食事をしました。それだけです」
『ラ・メール』は一階にあるカジュアルレストラン。
「そうか、それじゃ今度『ル・シエル』で何かご馳走してあげよう」
「え~っそんな、とんでもないです。あんな高級なところ」
『ル・シエル』はホテルの最上階、二十三階にあるフレンチレストランだ。
「勉強だよ。美沙ちゃんに自分が働いているホテルをよく知ってもらいたくてね。遠慮は要らないよ」と言った。
 でもいいです、言って美沙はパソコンに目を移したが、課長の視線を背中に感じて落ち着かなくなった。
 次の週。
「明日、仕事終わってから約束どおり『ル・シエル』に連れて行ってあげる。できれば、ちょっとおめかししてきて」と言う。
 え、約束した覚えないんだけど。どうしようか? えーと、頑なに断って気まずくなるのも困るし。美味しいものを食べるんだから、いいか! と考え、了承した。

 その日。ベージュジャケット、ベージュニット、ネイビーブループリーツスカート。おしゃれをするのは楽しい。でも、朝、忙しかったな。
「制服も似合うけど、今日のファッションはまた素敵だね」
 課長は舐めるように美沙を見る。ほめらてうれしいはずなのに、目が厭だと思った。
 まぁでも、いろいろ知ることができて良かった、と言えるだろう。
 料理は美味しかった。こんな美味しいものを造っているんだ。夜景も綺麗だ。改めて自分が働いているホテルは素敵だなと思った。
 食事がすすんでリラックスしてくる。美沙はワインをグラス二杯。成田課長はボトル半分以上飲んでいる。
「ル・シエルってどんな意味だかわかる?」課長が訊いてきた。
「ええ、入社説明会のとき聞きました。フランス語で空のことですよね」
「正解。じゃ、なぜホテル・セントラルフォレストって名付けられたか」
「えーと、そうね。杜の都、仙台の中央にあるから?」
「ブー。皆そう言うんだ。けど、ホテルの創業者が中森彦之亟(ひこのじょう)という名前だったんだ。その中森から」
 禿げたおじさんがブー、なんて言葉を発するのが可笑しかった。
 創業時は地元資本の八階建て、今なら小さい部類のホテルだ。だが当時は仙台随一の本格的ホテルとして名前を売っていった。中森は不動産業やタクシー会社などを手広くやっていた事業家だ。彦之亟の息子の代のときホテルの経営が危うくなった。そして、T興業グループに買収された。T興業グループは東京に本社を置き、バス事業を主とした企業だ。関東、東北のいくつかのバス会社とリゾートホテル、ゴルフ場などを傘下に収めている。このホテルはブランドを買ったと言われている。買収後、二度の建て替えを経て現在に至っている。
「社長は、T興業グループから出向してくるんだ。ふつう三四年で替わる。今の社長はバス会社の労働組合の委員長だった人。ホテルの経験も経営感覚もなし」
 T興業グループの名に傷をつけないようにしていればいい。気楽なもんだ。酔ったのだろうが成田課長の初めての愚痴を聞いた。
 その愚痴を言ったことにはっと驚いたように、別な話題に課長は話を持っていった。
「料飲部の中森次長、知っている?」と訊く。
 二三度見かけただけですが、と美沙は応えた。
「彼は中森彦之亟の曾孫なんだ。中森家の三男。本業は長男と次男が継ぐ、中森次長は東京のホテルに勤めた後このホテルに入ったんだ。なかなか優秀だよ」
 中森家はまだ株を持っているとのことだ。
 最後のデザートを食べ終える。
「どお、当ホテルのレストランは?」
「よかったです。ごちそうさまでした」と礼を言う。
「今度は別のホテルのレストランに連れていこう。他社を知るのも勉強になるよ」
「いえいえ、もう結構です。行けません」
 美沙は、これは断ろうと思った。
 エレベータへ歩きながら、課長は言った。
「なぜレストランが上階にあるホテルが多いか分る?」と訊く。
 首を傾げていると「エレベータで客室に昇るカップルが、レストラン利用する、と見せかけることができるからなんだ」と、下卑た笑いを見せた。
 あたし、こんな話を持ちかけられるの好きじゃないな。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み