第42話 美沙

文字数 1,719文字

 美沙はむっとしたがそれを表さず言った。学生の頃から、美紀と衝突をしたことはない。
「好きだと言ってくれたわよ」
 美沙の胸の中を、あのときの言葉が流れる。――美沙、好きだよ――電車が動き出したときに発した歩夢の言葉が。
「そう? 利用されているんじゃないでしょうね」
 どうしてそんな発想になるの? 今日のお姉さん、いつもと違う。
「違う。そんな人じゃない」
「歩夢さんの周りに美沙ちゃん以外に女の人がいなかったのでしょ。一緒に住んでいるから、そんな気になっているんじゃないの?」
「そんな……、意地悪言わないでよ」
 美沙は悲しくなった。
「ごめん、美沙ちゃんもう大人よね。しっかりしているのよね」
 美沙は返事をしない。
 ごめん、と言ったくせに美紀はまだ言う。
「男の人って、わからないものよ。気が多いの。体の関係を――」
 美沙は布団を被った。もう、いい加減にして。
 後の言葉は聴こえなかった。
 お姉さん、人が変わった。こんなことを言う人でなかった。
 歩夢がどんなにいい人か知らないくせに、勝手なことを。
 美沙は、布団の中で思った。今の愛の暮らしは一寸の疑問も挟む余地はない。あたしも歩夢も満たされている。
 ……と、苦い思いが蘇る。――塩崎純一。
 好き合っていたけれど、別れた。あんな風になってしまった。
 いえ、初めから別れることは分っていた。
 いや、そのことでなく、彼が見せた男の本性。
 成田課長も。
 なに、何を考えているの、あたしは……。歩夢は他の男とは違う。
 美沙は悶々と眠れずに過ごした。こっそり隣の布団を覗くと、美紀はもう眠ったらしい。憎らしくなった。寝返りを打って背を向けた。
 美紀のこのときの嫌味な態度の原因は、後で母親から聞いた。美紀の夫が女の人と遊んでいることが発覚したのだ。それも何人かと。男に対する不信感と悔しさがそうさせていたとのことだ。
 母が夫の話を美紀から聞いたのは、美沙が仙台に戻った後だ。話ながら泣いたり怒ったりしたが、離婚までするつもりはないと言う。母は一緒に怒り、慰めることしか出来なかった。父はずーっと家にいろ、と言ったが本気ではないだろう。数日後夫から電話があり、ひと騒ぎの後、迎えに来た。そして美紀は夫のもとへ帰って行った。とりあえず収まったらしい。
 美紀は、美沙に謝った。
 だが、そのとき生じた傷は癒えなかった。

 文盛堂は定休日がないので――ホテル・セントラルフォレストもそうだが――社員全体の行事は、閉店後の遅い時間に始まる。
 新年会に出た歩夢が帰ってきたのは、午前三時ころだった。次の日が休みだったこともあるのだろうが、これほど遅いのは初めてだった。美沙は寝ていたが、起きて迎えた。
 歩夢が外で飲んで来るようになったのは、文盛堂に入ってからだ。たまに先輩社員に誘われるとのこと。二時間くらいで切り上げてくる。酒はまあまあ飲めるようで、帰ってきてもだいたいしっかりしている。そして、飲んだときは美沙を求めてくるようになった。
 初めは「いやだぁ、お酒臭い」と、美沙は逃げた。本当は嫌ではないのだが、気分が高まってそうなるのと違う行為を受け入れる、自分の恥ずかしさがあった。
「じゃ、美沙も飲んで。そうすれば臭いは気にならないよ」と言って缶ビールを半分ずつ飲んだ。そんなことをしても臭いはするのだが、美沙は酒臭い歩夢さえをも愛おしむ。
 それからは、飲んで帰ったとき二人で少し飲む。それが愛の交換のサインになった。飲んで来たときの歩夢の行為は普段のときより粗野に感じる。酔っているからだろうが。
 その新年会の日、歩夢は帰って、着替える間もなくベッドに倒れ込んだ。さすがに今夜は飲み過ぎたのだろう。ぐっすり寝せてやろう。掛布団を直していると、いきなり腕を引かれた。
「あ、今日は飲み過ぎよ。寝なさい」
 言ったが、ベッドに倒された。
「大丈夫だよ。酔っていないよ」
「あたしが大丈夫でないよー。明日、いえもう今日か、仕事なのよ」
 今夜はあたしソファーに寝るからと言って、起き上がろうとした。だが、歩夢は美沙の腕から背中に手を廻す。そして体をまさぐってくる。美沙は力なく抵抗したが、最後は諦めて身をまかせた。怒りは湧かなかった。
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