第69話 美沙

文字数 1,654文字

 その翌日美沙は実家に電話をした。ちょっと長い休暇頂いたの、一週間まるまる帰るよ、と。母親は何かあったのかと驚いていたが、人事異動のことを話すと理解した。
 歩夢が興奮した声で電話をくれたのはその二日後だった。
「文盛堂が、ぼくの執筆に協力してくれるんだ。小説の取材のため必要なら休暇をくれると言うんだ」
「休暇を取ってまで何を取材するの?」
「今の場面の舞台になっている旭川に行こうと思う」
 え? そんな。あたしとは、一度も旅行していないのに、一人で北海道に……。
「旭川までって……、旅費も文盛堂で持ってくれるの? なんで急にそんな話になったの?」
 立て続けに質問する。
「まず初めの答え。旅費は出ない」
「そう? 結構かかると思うよ」
「それなんだけど、理沙がね、というより工藤さんが、残り全額返してくれたんだ」
「そうなんだ……」
 美沙は歩夢が遠い所へ行ってしまうような気がした。たとえ数日でも――。あ、でもあたしも実家へ帰るんだし、おあいこか。
「次の答え。先日光談社の吉永さんが来たでしょ」
 美沙が、うんという前に歩夢続ける。「そのあと、専務と一緒に僕を見つけて、そう、並木を眺めているのを……」
 歩夢の話は要領を得なかったが、解った。
「要するに吉永さんが専務に頼んだのね」
「そう! それでね、美沙」
 歩夢はまだ興奮しているようだ。「この前来たとき、来週一週間休暇貰うと言ったよね。そのうちの三日間ほど僕の取材に同行、というより旅行しないか? 日程としては美沙の休暇の前半がいいんだけど」
 思わぬ話に、さっきまでの沈みかけた気持ちが一気に晴れた!
「えーっ」
 思わず声が出た。――歩夢と旅行!!
 電話を終えてから、実家へ電話をした。帰省は一週間でなく四日間になると。
 今回は父が電話に出た。
「なんだ、一週間のんびりしていくって言ったじゃないか。もぉ~。……で、北海道には、誰かと行くんだろ。その、なんだ、付き合っているあの人か?」
 父親は気を回す。結婚するのだろうと思っているから。いや、結婚して実家へ帰ってほしいと思っているから。しかし、普通の父親はこんな旅行は行かせたくないと思うよな。会ったこともない男との結婚を望むのも……、変な親だな、と改めて思う。
「美沙、一度その人を家に連れて来れないか? わしが、上手く説得してやる」と言う。
 突然の父の話に窮する。正直、そう願いたい。が、無理だろう。
「今、小説の事でそれどころでないの」と逃れ、電話を切った。

 北海道旅行は楽しかった。旭川市とその近辺を二人で観て歩いた。満喫したと言うには時間が足りなかったが、楽しんだ。ただ、歩夢が隣にいるということだけで。
 その歩夢はというと、小説のことが頭にあるのだろう、心置きなく楽しんでいるようには見えなかった。写真を撮り、メモをし、時々何かを想う様子を見せる。ま、取材を兼ねているのだから。
 この旅行、旭川への行きは二人一緒だが、帰りは別々になる。歩夢は列車、で、青森に寄る。太宰治の生家と、小説『津軽』に著された地の一部を観ると言う。
 先に分っていればあたしも行ったのに、と思ったが実家に帰ることは変えられない。
 楽しい三日間――正確には二日半――は瞬く間に過ぎた。三日目の昼頃美沙は歩夢と別れた。歩夢は駅へ。美沙は空港へ。そこから羽田、羽田で乗り継いで庄内空港へと移動した。
 実家へ着くとさすがに疲れが出た。母親に土産を渡すとごろりと横になる。今回の帰省はいつものような開放感があまり湧かない。何故だろう? 二人で旅行をしてきたのに。
 それは、歩夢があまり楽しそうな様子を見せなかったこと。それと、一緒に泊まったのに、ホテルで歩夢は美沙を抱いてくれなかったから。小説のことで一杯だったのは解るが。
 また、小さな不満がプツリと湧いた。いけない、今は歩夢の大事な時なのだ。旅行に誘ってくれたことを喜ぼう。そうだ! 小説を書き終えたら今度はあたしから旅行に誘ってみよう。完成祝い、いや入選祝いになるかな?
 美沙は一人で夢想する。
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