第22話 美沙

文字数 1,300文字

 腹立だしい。ホテルの営業が再開して一月しか経ってないのに。また出てきた。
 社用伝票だ。
 顧客も戻っていない。宿泊部門を除けば、まだ業績が良くないのは美沙にも判る。特に売り上げの比重の大きい料飲部門――宴会とレストランは以前の半分もない。
 経費削減のためと、パート社員を解雇しておいて自分の昼食に社用伝票を切る。なんて節操がない人たちだ。
 最初は支配人だった。相手は『ヤマセン燃料』。日を置かず『海原石油』。どちらも出入業者だ。社長の昼食の伝票も回ってき始めた。例のとおり接待ではない。支配人はその後使っていないが、社長が使うようになってから、企画広報の辻村課長の伝票が上がる様になった。この人、自分を何なんだと思っているのだろう? 彼女にものを言う人がいないからか。声が大きく弁が立つので下手に拘るとタジタジにされるらしい。それと社長と仲がいい(・・・・)こともある。
 黙って事務処理していればいいのだろうが、今回は気持ちが収まらない。解雇された者の中に歩夢がいることもあるので、特にそう思うのだが……。
 歩夢に話すと、「気持ちは解るけど、美沙がどうにかできることでないでしょう」と言う。むしろそのおかげで美沙――あの日から、「美沙」「歩夢」と呼び合っている――とこうなれたのだから、と笑っている。
 でも、美沙の苛立ちは他にもある。他の課長がそれに対して何も言わないからだ。
「全社挙げて経費削減をしている折、いいんですか? 課長会議のときにでも指摘してもらえませんか」
 直属の上司である経理課長に話してみた。だが予想どおり逃げられた。定年まで波風立てず無難に勤めたいのだろう。月一回、課長以上が出席する会議がある。その席で問題にしてもらおうと思ったのだが。
 嫌だが、管理課の成田課長に言ってみようか。成田課長なら美沙が言えば聞いてくれる。はずだ。
 その訳は――
 純一からの、あの不快な電話があった日――。

 迂闊(うかつ)さに苦い思いが沸いてくる。
「ル・シエル」で一緒に食事をしてからというもの、成田課長はたびたび「他社のレストランにも行ってみよう」と誘ってくる。美沙はその都度断っていた。
 その日、残業を終えると、「ご苦労さま。どう、近くの居酒屋にでも行かないか」と声をかけてきた。また性懲りもなく、と思ったが、純一からの電話に、「ばかにしないでよっ」と、どなり返した後だった。むしゃくしゃしていた。お酒が飲みたかった。
「ええ、お付き合いしましょうか」と応えた。
「え! いいの」
 思わぬ返事に課長は目を円くした。「そうか、美沙ちゃんはレストランより居酒屋系が好みなのか」ニコニコと一人納得している。
 純一への怒りが飲むピッチを上げさせた。気持ちが荒んでの酒はよくない。悪酔いした。課長はタクシーを呼んでくれた。一人でいいと言うのに、一緒に乗り込んで、アパートへ送ると言う。断ったがタクシーが走り出した。ところが、走るほど気分が悪くなる。体を支えているのも辛く、課長の肩に寄り掛かる。揺れると吐き気もしてくる。早くタクシーを降りたい。どこでもよかった。
「どこかで、休んでいくか?」と、タクシーを付けた処はラブホテルだった。
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