第43話 歩夢

文字数 1,921文字

 文盛堂の新年会はホテル・セントラルフォレストの宴会場で行われた。歩夢はホテルに入るとき少し緊張した。一緒に働いていた社員と出会うのが気恥ずかしくもあり楽しみでもあった。階段に向かうロビーを歩いて、美沙と会えばどうしようか、と一瞬思ったがすぐ打ち消した。この時間はもう退社しているはずだし、そう言っていた。
 宴会ホワイエに上がると、奥のソファーに座って中森次長が誰かと話をしている。背中ですぐ文盛堂の倍賞専務だと分かった。
「おー、高橋くん」
 中森次長が呼びかけてくれた。歩夢は目礼をしてそちらへ歩む。次長は、どうだ、仕事は慣れたかと訊いてくる。
「はい、だいぶ慣れました。次長、その節は大変お世話になりました。ありがとうございます」歩夢は頭を下げた。
 倍賞専務も振り向いて歩夢を見ている。
「高橋くんは良い仕事をしているわ」と、にっこり笑う。
「そうだろう。いい青年だ。今、お客様も戻っているので、うちのホテルは人を増やしているんだ。惜しい人を紹介してしまったよ。もう一度考えなおそうかな」
 そう言って、倍賞専務を見てニヤリと笑う。
「そうはいきませんわ、中森さん。高橋くんはもう貴重な人材、POPのフレーズのセンスいいし。それに、高橋くんの書いた小説が雑誌に載るんですのよ」
「お、それは凄い。何の雑誌?」と訊く。
「高橋くん、おしえてあげて」と、倍賞専務。
「文芸光談です。来月発売の」
 あ、ある逃避という題名です、と歩夢は応えて顔を赤くした。人におしえたいが、自慢するようで、自分から言うのが恥ずかしかった。
「そう言えば、ホテルにいた時も書いていたと聞いたな」
 その雑誌読んでみるよ。もちろん文盛堂から買ってと言って次長は、歩夢から専務に目を移した。
「ありがとうございます!」歩夢と専務が同時に言った。それが可笑しくて、三人で笑いあった。
 二人から持ち上げられて歩夢は気持ちよかった。

 先に会場へ行っています、と歩夢は専務に言ってその場を後にした。
 会場行くまでに知っている宴会サービスのスタッフ二人に声をかけられた。歩夢も挨拶を返す。緊張が解けにこやかな顔になっていた。
 新年会は、全六店舗の社員が集まる。会場前のホワイエには歩夢が会ったことのない人が何人もいた。歩夢より古い社員たちはお互い顔見知りのようで、あちこちで会話を交わしている。
「準備が整いました。皆さまどうぞお入りください」係員の声が聞こえた。
 宴会は着席式で、円卓が並んでいる。歩夢は自分の席に着く。席は決められている。違う店の人同士が並ぶようになっているようだ。左隣には若い女性が座っていた。
「今晩は。勾当台公園店の天童です、よろしく」と先に挨拶された。歩夢は慌てて、青葉城店の高橋です、と挨拶をする。七月に入ったばかりです、と言おうとしていると、大柄な男性が来て、「お、ここだ」と椅子を引いて「よいしょ」と声を発して右に座った。四十代くらいか。
「青葉城店の高橋といいます。七月に入ったばかりです。よろしくお願いいたします」と左側の女性にも聞こえるように言った。
「おう、新人か? 男前だな」と大きな声で言う。
 俺も高橋というんだ。同姓だ。きっと同じ先祖だぞ。わははと笑った。なかなか愉快な人のようだ。
 新年会は、社長の挨拶の後、倍賞専務もマイクの前に立った。話の中ほどで、「青葉城店の高橋さん、ちょっと立ってください」と突然言われた。歩夢は、戸惑いながら立つ。
 そこで歩夢の小説が「文芸光談」に載ることを紹介した。おー、と声があがり会場がざわついた。
 歩夢は顔を赤らめて三方へお辞儀をした。座ると両隣から、「すごいわね」、「やるじゃないか」と感心された。
 右隣の高橋は駅前店の店長で、名前が「みゆき」だと自己紹介してくれた。外見に似合わない。「深幸」と書くそうだ。女に間違いられて、子供の頃は嫌だったが、今では面白いと思っている、と言ってまたわははと笑った。親しい人からは「しんこう」と呼ばれているそうだ。
 宴会が始まると高橋店長は豪快に飲み、食べた。その合間に話しかけてくる。歩夢は訊かれた小説のことなど話す。少し会話が途切れたとき、
 あそこのテーブルにいる、と言って二つ隣のテーブルを目で示す。歩夢から斜め後ろなので首を回す。ああ、石原さんがいるテーブルか。
「石原朋美、同じ青葉城店だろ」
 高橋店長はそう言うと、ビールのグラスを口に持っていく。
 歩夢ははっと胸が動いた。
「彼女、いい女だよな。体も心も丸っこくて」ゴクゴクと飲んでグラスを置く。「俺、惚れているんだ」と、言ってわははと笑った。
 歩夢は笑えなかった。この人、石原さんと仲がいいのか。――なんだ? この妙な気持ちは。
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