第12話 歩夢

文字数 1,580文字

 キャンドルの炎は、催眠作用があるんだ、喋らせるという。歩夢は自転車をこぎながら思った。
 ここまで自分のことを話した人は、一人しかいなかった。
 ――ZALホテルのスチュワード長、三田さん。
 その若い調理員がやってきたのは、洗浄し終えた食器をストッカーに収納して一段落した時だった。
「おい、おまえが欠いたのか」
 手に持っているのは和食器。歩夢は数日その食器を扱った覚えはない。
「ぼくじゃないですよ」
「じゃ、誰なんだ! こんな食器を並べると俺が叱られるんだ」
「え、並べる前に外せばいいんじゃないですか」
 若い料理員はまだ見習い。周りは先輩ばかり。この世界は上下関係が厳しい。先輩調理員は下への口が荒い。それに耐えながら仕事を覚えていく。その調理員は以前にも歩夢になにかに言ってきたことがある。おそらく先輩には言い返せないので、歩夢でうさを晴らしていたのだろう。
今までの歩夢は、すみません、と引いてあしらっていた。だが、この日は退学届けを出してきた日だった。気持ちが(すさ)んでいた。
「そのくらい、気が付くでしょう」
 いつも歩夢を虐めて留飲をさげていた調理員は、予期しない口ごたえに顔つきが変わった。
「なんだと」
 足を払ってきた。退がって歩夢は()けた。空振り。それに激昂した調理員は両手で歩夢の肩を押す。持っていた食器が当たり痛い。歩夢は強く押し返した。調理員は床の小さなでっぱりに足をひっかけ、積んでいたストッカーによろめく。上段の二箱が落ちた。食器が百個以上は入っている。一個数千円する食器だ。その音に人が集まってきた。
 双方が事情を聴かれた。結果、両成敗。正社員である調理員は厳重注意。アルバイトの歩夢は解雇。数十万円相当の食器を壊したことが大きかった。歩夢の働きぶりを知っている洗い場の人たちは同情した。
 特に三田さんは心配してくれた。
 聴取が終わって二人になったとき訊かれた。
「何かあったのか? 普段のきみと違うな」
 よく自分を看てくれているし、いろいろと聞いてくれていた三田さんなので話した。通帳を持ち出されたこと、それが妹の理沙だったことが、歩夢から復学の気を削いでしまい退学届けを出したこと――。
「留守中に掃除に来ているうちに偶然通帳を見たんでしょう」
 話しているうち幾分落ち着いてきた。
「この後どうするの?」
「考えていません。東京には居たくありません」
 M大学のある、そして工藤と理沙のいる東京から離れたかった。
「田舎に帰るのか」
「それもないです」
「そうだったな」家庭の事情は、三田さんには話していた。「でもどこかで働くんだろう」
 希望を無くしている歩夢を、三田さんは立ち直らせたかった。
「高橋くん、仙台に行ってみないか。僕の先輩が仙台のホテルにいるんだ。ある程度の地位にいる人なので、採用の権限はある」
 以前にも仙台が地元の人を紹介したことがあると言った。「僕が身元保証人になる。頑張り屋の高橋くんなら、自信を持って薦められる」
 大学中退、父親は行方不明。このぼくを? 自分のことを親身に考えてくれている人がいる。自棄(やけ)になりそうな気持が癒える。
 三田さんはすぐ電話してくれた。四月から何人かの採用を予定しているが、今でもいいと返事があった。
 歩夢は面接試験を受けた。
 一月から、四ヶ月間の試用期間を経て、採用されることになった。
 三田さん好意に応えよう。ここで一からやっていこう。

 宴会サービス課。歩夢の配属先だ。その料飲部次長が、三田さんの先輩中森さんだ。
「三田から、とても真面目でいい青年だと聞いていたが、そのとおりだな。頑張ってやってくれ」先日そう言われた。
 慣れてきた二ヶ月目に震災に合った。初めて経験する大きな地震だ。でもホテルの人たちの行動に驚いた。避難してきた人たちへの対応、営業再開に向けての地道だが大変な作業。歩夢は無我夢中で働いた。
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