第49話 歩夢

文字数 1,972文字

 もっと寝ていたかったが、早く起きて石原さんに読ませる小説をプリントした。朝食の準備をしていた美沙は、キッチンから「どうしたの? 仕事で使うの」と訊いてきた。
「いや、職場の人がぼくの小説を読んでみたいと言うんだ」
「今晩だといけないの? 明日まで待てばいいのにね」
 たしかに明日でもよかった。でも石原さんに、一日も早く読んでもらいたい。もちろんそんなことは言えない。
「だよね、その人早く読みたいって言うもんだから」
 と、勝手な理由をつけた。「ぼくの小説をそう言ってくれるのは嬉しいし」
 そうよね、と言って美沙はキッチンの作業に戻った。
「その人、読みたいという人のパソコン、インターネットできるんでしょうね」
 朝食をとっていると美沙は言ってきた。
「聞いたことないけど、たぶんあるんじゃないかな」
「固定電話引こうかしら。回線があるとインターネットできるんでしょう」
「そうだけど、突然どうしたの」
「そすればいちいちプリントしなくても送れるし」
「ぼくのためなら要らないよ。頻繁にあることでないし」
 これでこの話は終わった。
 そしていつものように出勤の支度をしていると、歩夢に光談社の吉永さんから電話があった。長電話になるので、昼休み休憩にもう一度かける。その時間をおしえてくれ、と言う。吉永さんも自宅からで、歩夢が仕事に就く前の時間を狙ってかけて寄こしたと言う。
 昼休みの時間をおしえると電話は切れた。

 石原さんは休みだった。自分のドジさに呆れ、苦笑いした。仕事を終わったら持って行こうかな。場所も知らないのに何考えているんだ。笑ってしまう。なんか浮ついているな。光談社の吉永さんからくる電話はいい話に違がいない、と期待をしてしまう、からだ。
 長い午前の仕事が終わった。昼食中に携帯が鳴った。
 吉永さんの話は要領がよかった。
 光談社では毎月、文芸光談への感想を募集しているのだが、先月号の「もう一歩の三人」――歩夢たち三人――への感想が予想を超えて多かった。ほとんど好意的なものだ。そこでこの三人に中編をもう一二編書いてもらおう、ということになった。そして内容と状況次第で、文芸光談に掲載する。
 三人の中で「深田京介の、ある逃避」への感想が一番多かった。中でも主人公、中野惟忠の息子、忠一と、娘の麻沙美に惹かれたとの感想が幾つもきた。吉永さんもかねてそう思っていたので、歩夢には忠ーを主人公にしたものと、麻沙美を主人公にしたスピンオフ――「ある逃避」のストーリーと別立てに、しかし境遇とキャラクターはそのまま――を二編書いてもらうことを提案した。
 なので、ぜひ書いて欲しい。吉永さんは深田京介の担当編集者として執筆前からアドバイスをする。
 さらに吉永さんは、この二編は「邑山憲一文学新人賞」に応募させるので、そのつもりで書きなさいと、言う。この賞は、出版社が推薦した新人から選考するもので受賞者は数人になるので入賞しやすい。副賞は記念品だけだが、推薦した出版社が原稿料で担保する。
 そして、どちらか一編でも入賞すれば光談社は、「ある逃避」と合わせて中編二作で単行本を発行する――。
 歩夢は飛び上がった。
「単行本に? ぼくの小説が、なるんですか」
「あわてんぼうさんっ」、吉永さんは笑った。
「喜ぶのは早いよ。まずいいものを書く。そして入賞!」
 言葉では戒めているが、吉永さんも口調が弾んでいる。
「そういえば書店の同僚も麻沙美の活発なキャラがいいって。こんな子が登場するのを読んでみたって言っていました」
「そうでしょう、同じ感想が何通もきたのよ。麻沙美もいいけどわたしは忠一が好きよ」
 近いうち仙台に行く。そのとき細かな話をしましょう。また連絡するね。そう言った吉永さんは電話を切る直前、
「ああそうだ、深田京さんという人からもきてね――」思い出したように言った。
 もしかしたら、深田京介の本名は高橋歩夢さんではないか。そうだとしたら自分は高橋さんと大学のサークルが一緒だった者だ。よく太宰治について語った。彼は突然大学を中退して連絡がとれなくなった。うぬぼれみたいだが、私の名前からつけた筆名だと推測してしまう。違っていなかったら、住所か電話番号をおしえてほしい。またはこの葉書を見せてほしい。
 ――と書いてあったそうだ。
 全身の血がかけめぐった。
 深田さん――。
「それはお答えすることも、おおしえすることもできませんが、このことは深田京介には伝えておきます。本人が深田京さんをご存じで、京さんと連絡したい場合は京介さんから電話なりいくと思います」
 このように返答したとのこと。他の感想と一緒に持って行く。そう言うと電話を切った。
 まだ胸が高鳴っている。
 深田京さんがぼくの小説を読んだ。そして、ぼくと連絡をとりたいと――。
 その日は一日ふわふわして過ごした。
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