第57話 歩夢

文字数 1,608文字

 三月に深田さんと会ったとき、プリントで貰った彼女の小説を読んで驚嘆した。文章がとても上手いのだ。特に風景、自然の描写には舌を巻いた。きっと多くの本を読んだことで身についたのだろう。そうだとしたら、上手い人はまだまだいるんだろうと思う。これを、糧にして自分の創作意欲を高めればよいのだが、かえって出来なくなった。自分が書いた文章が平易なものにしか見えない。筆が止まってしまった。
 深田さんの小説を読んだあと電話をして、感想を伝えた。とても文章が上手くて感動したと言ったら、歩夢の方が嬉しくなるほど大げさに喜んでくれた。
 歩夢は別の作品も読みたいと伝えた。
「いいわよ、人に読んでもらえるのはあと一作かな。今度会うとき持っていくね。あ、高橋くんはいっぱい書いているんでしょう。どれか持ってきて」
「うん、用意しておく。今度っていつ会えるかな?」
 すぐにでも会いたかったが、そうはいかない。
「また実家に帰るとき。電話する。土日が休日だけど、予定を立てられないの、あたしの仕事」
 でも、言葉とは裏腹にいきいきしている様子が伝わってくる。
 深田さんとは電話で話すだけでも胸が躍る。
 その後は電話のやりとりはしていない。歩夢としては話をしたいのだが、電話をかけてまで話す用件がない。
 四月末、その深田さんから電話がきた。明日実家に帰るので歩夢の都合がつけば、仙台に寄る。作品を交換しようと言う。うまい具合に歩夢は休みだった。
「いいよ! 大丈夫」つい、返答の声が弾んだ。美沙がこちらを見た。
 女性との電話は、美沙に気兼ねする。前の電話のときはとっさに男の友人の振りをした。が、見抜かれていた。詰問された訳でないが、深田京介のペンネームをとった人だとも知られてしまった。実在の人物、しかも女性だとは思っていなかったろう。美沙は何も言わなかったが、バツが悪かった。

 翌日、前回と同じ駅構内のコーヒーショップで会った。作品の交換をしてから歩夢は光談社からの依頼(・・)で二作書くことになっていることを話した。それが邑山文学賞に入選したら単行本になることも。「担当の編集者が強く推してくれているんだ。有望だと」
 多少誇張もした。見栄というか、良く見せたかった。深田さんは、えー! うわー! すごいわね高橋くん、と感激して歩夢をいい気分にしてくれる。大学のときは文学を熱く語ることはあったが、これほど表現が明るくなったことに驚いた。
「何が深田さんを変えたんですか?」歩夢は訊いてみた。
「就職活動のため、あたし話法教室に通ったのよ」
「わほう?」
「あ、話し方の話法ね。成果があって、今の新聞社から内定をもらったの」
 その後の深田さんの話は面白かった。初めて自分の記事が新聞に載ったときの感激。自分の文章を多くの人が読んでくれることの嬉しさ。書く仕事を満喫している――。話すとき目がくるっくるっと動く。その動作に惹かれる
 楽しい時間は瞬く間に過ぎた。歩夢は休みなので何時間でも話していたかった。でも深田さんは久しぶりに実家に帰るのだから、それは言えなかった。一時間半ほどして、それではまた会いましょうと言って、深田さんは立った。
 深田さんが去ったあと、思った。深田さんの溌剌(はつらつ)とした話し方は心が浮き立つ。会話力は言葉だけでない。にじみ出る表情や仕草もあって伝わり方も変わる。何故か、石原さんの包み込むような表情での話し方をも思い出した。そして、光談社の吉永さんのきっぱりしているが緊張させない話し方も――。また表現の難しさを考えてしまった。文章での。
 深田さんは去り際に、今度は仙台を案内してね、と言った。もちろん歩夢は承諾した。前回も同じことを言ったので本当に仙台観光をしたいのだろう。その日は一日いっぱい一緒にいられるな。
 もう少しここでゆっくりしていこう。残ったコーヒーを口に含んで、今交換した深田さんの作品を広げた。コーヒーは冷めていたが美味かった。
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