第52話 歩夢

文字数 1,398文字

 締め切りは七ヶ月後だから時間はある。
 近いうち構成などアイディアを持って来るが、歩夢にもこれを見て考えておくようにと、編集部に寄せられた感想文を取り出した。
「はがきの文面のコピーね。ああ筆名と同じ名の人、深田さん、のは宛名面もコピーしてあるわよ」
 と、用紙の束を寄こした。
「その人、知っている方でしょう? 住所と電話番号も書いてあるから、連絡したい人ならしてみて。文学仲間かしら」
 これを待っていた。目の前に出され、今まで小さかった心の昂ぶりが、ぐぐっと拡がった。
「え、ええ、そうです。懐かしいな。連絡してみます」声が上ずった。
 吉永さんの用件は済んだ。
「私はこの後、文盛堂の本店に行って社長と専務に会うけど、どうする? 一緒に行く?」
「……いえ、ぼくはいいです」
 専務はともかく、社長には緊張するだけだ。それに、早く深田さんの文を見たい。
「そう? 今回のことを詳しく説明してくるわ。あなたの勤務のことで便宜を図ってもらうこともあるかもしれないし」
 
 ホテルの玄関で吉永さんと別れる。話しやすい人で良かった。そう思いながらバス停に向かう。だいぶ後になって知るのだが、編集者にはコミュニケーション能力が必須なのだ。アパートに着くまで待てずに、バス停でリュックを下ろし、用紙を取り出して見る。
 ――青森市〇〇町×丁目。深田さんの住所だ
 青森にいるのか。実家は東京のはず。結婚したのだろうか。いや、卒業したばかりだからまだだろう。バスが来た。慌ててまたリュックに仕舞う。
 部屋に入ると、リュックを開けるのももどかしく手に取る。
 住所の下には携帯の番号も書かれている。
 かけようか。いや、その前に文面を読んでおこう。歩夢の小説の評と、連絡をとりたい旨がぎっしり書かれている。感想をはがき限定で受けるのは整理しやすくするためだろう。書き足りない読者もいるに違いない。
 また、携帯の番号に目を遣る。かけていいのかな? いいはずだ。
 間違わないように、慎重に読みながらプッシュする。呼び出し音が鳴る。出ない。緊張が高まる。心も震える。切ろうか、かけ直そうか。と、
「はい、もしもし」女性の声。
「あ、あの、高橋といいます。高橋、歩夢です。深田さんの――」
 ――携帯ですか? と言う前に「ごぶさたー。深田です」明るい声が応えた。
「よかったー、光談社さん見せてくれたんだ」
「うん、今日もらった。深田さん、青森にいるんですね」
 明るい声に、落ち着いてきた。
「そう、今職場。読日新聞の青森支局」
 読日新聞に就職したのか。発行部数トップの全国紙だ。すごいな。
「高橋くんは、何処にいるの」
「仙台です。あ、宮城県の」
「あらー、同じ東北ね。近いじゃない」
「深田さん、お元気そうで良かった。ぼくの作品を読んでくれてありがとうございます」
「うん、あれ買ってよかった。偶然だったの。毎月購読している雑誌でないのよ。たまたま買って読んだら、深田京介って名前があるじゃない。それで……、あ、呼ばれた」
 ごめん、まだ新米だから。深田さんがそう言っていると、「おーい、深田」と呼ぶ男性の声が携帯の向こうでする。
「夜、あたしから電話するわ」
 ハーイ今行きます、の声と同時に切れた。
 歩夢は新聞社のエネルギーを垣間見た気がした。部下の都合などお構いなしで仕事を通す図太いエネルギーがある。深田さんは、こういう風に揉まれて記者魂を着けていくのかな。
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