第59話 美沙

文字数 2,139文字

「まだ言ってなかったけど、引っ越しをしようと思うんだ」
 歩夢と並んで夕食の食器を洗っているとき、歩夢が言った。
 え、誰が? 美沙は歩夢が他人のことを話したと思った。
 そうじゃないな。
 あ、そうか。あたしたちのことね。
 ここ、二人には狭いから。ベッドは二つ置けなくて歩夢は床に寝ているし、キッチンも不便だし……。もっと広いところへ引っ越ししたいんだ。
 そう思おうとした。
 だが、歩夢の次の言葉が正気に戻した。
「見つけてきたんだ。八畳の広さ一間に、ユニットバスの小さい部屋だけど、ぼくには十分だ」
 美沙は食器洗いを止めて手を拭いた。
「えーと、引っ越しって、あたし聞いていなかったから、意味がわからない」
「ごめん、こんなにすぐ手ごろな物件が見つかる思わなかったから。不動産屋をひととおり観てから相談しようと思っていたんだ」
「あたしと別れて暮らすってこと? あたし嫌われるようなこと、したんだ」
「美沙、そうじゃない。ぼくの気持ちは変わらないよ」
 布巾を置いて歩夢は話した。
 震災のあと住む処のない歩夢は、ここに住まわせてもらっている。感謝しても感謝しきれない。美沙は良くしてくれるし居心地もいいので住宅事情が緩和されても居続けて、気が付いたら一年以上経ってしまった。でもこのまま暮らすのは何か違う気がする。一旦リセットというかけじめをつけたい――。
「もちろん美沙のことは好きだ」
 それにと言って、歩夢は一呼吸おいた。「美沙もぼくのことを好きなのは判っている。で、思ったんだけど、ぼくたちの場合順序が逆なんだ。知り合って、好きになり、離れたくなくて一緒に暮らすのが普通だと思うんだ。ぼくたちは先に暮らしてしまっただろう」
 聞いて美沙は姉の美紀の言葉を思い出した。――一時(いっとき)の感情で、暮らし始めた。のでしょう――。
「ぼくが美沙を好きになったとき、もう美沙がぼくの前にいたんだ。毎日……。だからぼくは、なんというか……美沙に逢いたい、話をしたい、触れたいと……美沙が傍にいない状態で、美沙に焦がれてみたいんだ」
 あたしは歩夢が傍にいても焦がれているわ。美沙は心の中で反論する。
 だが、変な理由だと思ったが、あと考えなかった。もう決めたことだし。反対して争うのは望まない。
「美沙、ぼくたち、まず恋人としてやり直そう」
「恋人から?」
「そう」
 小説を書く人ってこういう経験もしたいのかしら。そう理屈をつけた。

 引っ越しの前日は、歩夢は早番だった。美沙が帰ると荷造りは出来ていた。歩夢にはあまり荷物はない。段ボール箱が四箱。本と衣類、小物が詰まっているはずだ。布団は海苔巻きのようにまるめて紐で縛っていた。タクシー二台に分ければ積めるだろう。
 引っ越し先の掃除は美沙も手伝うことになっていた。歩夢はもう行っている。美沙は着替え、バス停に急ぐ。うまい具合にバスはすぐ来た。
 バスを降り十分ほど歩くと現れた。アパートというより民家に見えるような建物、「ひがし荘」
 一度歩夢と来ただけだが、迷わず着いた。震災で被害にあったアパートで先月修繕を終えたものだ。歩夢の部屋は一階。自転車がドアの横に置いてある。そのドアをノックする。歩夢が開けてくれた。雑巾を持っている。床を拭いていたようだ。
「遅くなっちゃった」
「疲れているのにごめん」と、歩夢は袖で額の汗を拭う。
「気にしないで」
 美沙はすぐ流し台を拭き始めた。
 二人だと捗る。四十分ほどで終わった。
「ああ、さっぱりした」
 歩夢は床に大の字に寝転ぶ。「美沙もやりなよ、気持ちがいいぞ」
 言われて美沙も隣に寝転ぶ。なるほど、フローリングの冷たさが気持ちいい。広げた腕の先、美沙の指が歩夢の指に触れた。どちらも手も動かさない。二人は何も言い出さない。無言の時がしばし、流れる。ずーっとこうして――
「さてと」
 心地よさを破ったのは歩夢の声だった。「帰ろうか」
 ――いたいな。
「自転車、あたしも」
 ふわりとこの言葉が出た。
「二人乗り、怖くないのか」
「怖くない!」
 言い切った。
 自転車の荷台に横座りに乗り、歩夢の腰に手をまわす。六月は日が高い。まだ薄明るい。
 二度目だ、乗せてもらうのは。あのときも、あたしのアパートまで乗せてもらった。そして震災で乱れたあたしの部屋を片付けてもらったんだ。
 頬をなぜてゆく風が心地よい。あのときもそう思ったっけ。歩夢の背中が広い。あのときもそう思ったな。自転車はけっこうな速度で走る。意外に脚力があるんだ。あのときはそこまで気づかなかったな。
 途中、スーパーに寄って、お惣菜を買った。
 美沙の部屋へ帰り、遅い夕食を摂った。静かな食事。
 そしていつものように二人並んで食器洗いをする。美沙の肩が歩夢の二の腕に触れている。いつものように触れたままで洗う。こうして食器を洗うのも今日が最後……。美沙の手が動かなくなった。ボウルに、雫が一滴二滴落ちた。
「どうした? 皿、寄こして」歩夢が美沙の方を向く。「え、涙」
「自然に出てくるの」半泣きで言う。
「そうか……、ここで拭きな」
 歩夢は美沙の肩を引き寄せ、顔を胸で受けた。
 汗臭い胸で、美沙は少し泣いた。
「わ、どうしよう。シャツをぬらしちゃった」
「だいじょうぶ、すぐ乾くよ」
 夜も、抱き合って眠った。
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