第67話 歩夢

文字数 1,882文字

 吉永さんが帰ると、書こうと気力が湧いてきた。
 まず、さっき指摘された木々を観て来よう。
 この近くには木はあまり生えていない。あっても疎らに雑木があるだけだ。
 そうだ、青葉通りは並木道だったな。明日出勤前に観てみよう。遅い昼食を摂る。食べながら、もうひと眠りしようかな。いや、先に行ってみよう。と考えているとスマホが鳴った。理沙からだ。久しぶりの電話だ。
「おにいちゃん、げんき~?」
 明るい声が響く。相変わらずだなと思う。
「おぅ、どうした!」今月分――工藤のために使った金――は振り込まれているし、何の用だろう。来月分は返せないとでもいうのかな?
「今日はいい話と悪い話、二つ。先にいい話からね」
 理沙は、「お兄ちゃんテレビは観ない方だよね」と続ける。
 ここには無い。美沙の部屋にはあったが、あまり観ることもなかった。
「あたし来週テレビに出るのよ」声が弾んでいる。
「え! そりゃすごいな。何の番組だい」
 理沙の話はこうだ。
 工藤たちが組んでいるバンドの世話をしているうち、マネージャーのような仕事もするようになった。そして理沙の提案で震災の被災地へ二度——五会場で——慰問演奏をした。
 ここまでは歩夢も以前に聞いていた。
 それまで工藤たちが演奏していたのは、パンクロック系や絶叫型フォークソングが主体で被災地での慰問の曲としてはふさわしくない。そこで一般に馴染みのある曲を演奏した。いわゆるフォークソング。観客は大いに楽しんでくれた。また、東京でのライブハウスでも取り入れてみた。こちらも好評だった。気をよくした工藤はそれ系の曲作りをするようになった。驚いたことに、曲によっては理沙が作詞をし、ヴォーカルも担当するようになっていた。それらが評判になり、テレビ局がコンサートを取材に訪れ、また先日スタジオでの収録もしてくれた。それが来週放映されるとのこと。
 その日は観ることが出来ないと思うけれど、知り合いに録画を頼んでおくと、歩夢は応えた。
「それでね、ライブコンサートの出演料、予想以上に貰えたので残額を全部返せるの。二三日中に振り込むから……」
 そうか! 良かった。工藤もよくやっているんだ。次は悪い話か。ま、電話の様子ではさほど悪いことはないだろう、と歩夢は思う。
「あのね、お父さんがまた家を出たんだって。昨日お母さんから電話があった」
 前に父と逃げた人妻——今は離縁されて、人妻と言えないが――の元へ行った。どうやらその女が父の居場所を探して連絡をしてきたらしい。それまで父は駐車場の管理の仕事をしていた。少ないながら、収入を得て母と暮らしていけるはずだった。
 それを……、言葉が出てこなかった。
「お母さんも、もういいって。諦めるそうよ」理沙の言葉、声の調子はあまり落ち込んではいないように感じた。もともと明るいキャラではあるが。
 父のことは気にならないと言えば、嘘になるが、あまり気にしないようにした。今歩夢の頭の中を占めているのは、執筆への欲だ。

 電話を終えてから外へ出て、自転車を引っ張り出した。並木を観るためだ。市街へ向かって自転車をこぐ。心地よい風を受けて走る。一度も休むことなく西公園に着いた。自転車から下りて並木の木陰に入ると汗が引く。揺れる葉の緑を胸いっぱい吸う。自転車を引いて歩き、小説のイメージに重ねてみる。いいぞ……。
 ――はっ! 今気付いた。この並木はケヤキ。小説のあの舞台は旭川。スマホで検索してみる。――プラタナスか。
 ここからだと、市民図書館が近い。方向を変え、向かった。プラタナスを調べ、図鑑や写真で観る。
 ――ケヤキとは違うけれど、ま、イメージは湧く。だいたい分かった。
 図書館を出て、定禅寺通りに出る。この通りもケヤキ並木だ。眺めながら自転車を引いて駅方向へ歩く。と、横に車が停まった。「高橋くん」と声をかけられた。驚いて車を観ると、助手席に吉永さんの顔が見える。
「どうしたの?」「あれ、どうしたんですか?」同時に声が出た。
 ウインドウを通して運転席には倍賞専務が見える。腰を屈めて挨拶をする。専務は笑顔で返す。
「専務に駅まで送ってもらう途中」と、吉永さん。
 歩夢は説明をした。倍賞専務も、ふんふんと聴いている。
「ふ~ん、そうなんだ」聴き終えると吉永さんは頷く。「解ったわ、この調子で頑張ってね。次回読むのを楽しみにしているわ」と言い、倍賞専務に目を遣る。
 専務も「暑いから体調管理もしっかりね」と、言うとシフトレバーを操作した。
「ありがとうございます」
 走って行く車を歩夢は見送った。緊張したのだろうか、急に疲れを感じた。

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