第9話 美沙

文字数 1,879文字

 初めは立っていられた。だが急に揺れが大きくなった。茶碗やコーヒーカップが床に散る。キャビネットや棚からファイルが飛び出す。机の上から書類が滑り落ちる。窓のブラインドが波打ちカチカチと音をたてる。立っていられない。美沙は床にしゃがみこみ咲江と互いに支え合った。ホテルが倒壊するのではないかと恐怖を抱いた。早く収まってくれと祈る。揺れは収まらない。長い。天井の照明がチカチカしてその後消えた。停電。同時に自家発電機が稼働したようだ。所どころの照明が点いた。
 少し揺れが小さくなる。支配人室から支配人が出てきた。
「みんな、落ち着いて」机に両手をついて支えながら、自分を落ち着かせるように言う。
「管理課長、非常放送だ、館内放送を」と機器を指す。課長は思い出したように駆け寄る。スイッチを入れる。壁に貼ってある地震用の文を読む。「……窓から離れて下さい。落下物に注意して……」
 放送が繰り返されている間支配人は次の指示を出す。
「まず、お客様と社員の安全の確保だ。いいか、このホテルが崩れることはない」
 阪神淡路大震災級以上の地震にも耐えられる設計だという。
 不用意に外に逃げ出すとかえって危ない。壁やタイルが落ちてくるかもしれない。まずお客様を落ち着かせること。それと天井からの落下物に注意してもらうこと。照明器具、シャンデリア。
 さすが、経験豊富なホテルマン。適格な指示だ。
「人事課は『ラ・メール』とロビーのお客様。経理課は宴会フロア―。管理課は警備員と客室階へ」
 怪我人などいたら、私に連絡。名前住所も聞いておくこと。
 気が付いたら揺れは収まっていた。
「まだ余震はあるぞ、気を付けて」と言い支配人はフロントに向かった。
 頼もしいな、と美沙は支配人を見直した。
 後で聞いたが、支配人のデスクマットの下に非常時のマニュアルがあるということだ。でも、とっさにそれを取り出せるのはすごい。

 三階のホワイエは人がうごめいていた。
「頭を鞄などで保護して落ち着いて出てください」
 孔雀の間から声が聞こえる。見ると中森次長がお客様を誘導している。まだ揺れているシャンデリアから吊るされている、クリスタルガラスの連なりがコロンコロンとぶつかる音がする。
「高橋くん、お客様を一階にお連れして。慌てないでな」と若い社員に指示を出す。
「高橋さん、ていうのね」美沙は傍に行った。
 あのー、不用意に外に出るとかえって危ないこともあるそうだから覚えておいてね、と言った。高橋は驚いたように美沙を見た。
「この建物は大地震でも崩れないんだって。落下物に気をつけていれば大丈夫」
「ありがとう」高橋は階段を降りていく。
 あの人が高橋さんか。一月から宴会サービス課に入った人だ。社員食堂で見たことがある。そのときは、なんとなく陰がある人だなと思った。

 高橋を気にしたのは、咲江から聞いていたからだ。先月、給湯室でお茶を入れているときに言ってきた。
「ね、ね。宴会サービスに入ったイケメン。その人、社食を毎日三食とっているの。毎日よ」
 こういう個人的なことはあまり言うべきではないのだが、黙っていられない性分なのだろう。
 ホテル・セントラルフォレストでは社員の食事を一日四食準備する。朝食、昼食、夕食、夜食だ。ふつう社員は一日に、一食か二食注文する。食事簿の自分の名前の欄に、前日までに印をつけておく。総務のような日勤の人は昼食だけが多い。早番は朝食と昼食。中番は昼食一食か夕食も加えた二食。遅番は夕食と夜食の二食。夜食はフロントの夜勤と料飲部、調理部の遅番がとることが多い。
 一食百円。社食は福利厚生の一環だ。なので、人事課の管轄になる。調理するおばさんたちは厨房の一角で仕事をしているが、組織上は人事課になる。すべてパート社員だが。同じように警備員は管理課になる。ほとんどが退職してから嘱託で採用された人たちだ。
「高橋くん、社食が全食生活なのね」咲江は言った。お休みの日どうしているのかな? 造りにいってあげたいわね、と美沙に言った。
 あら、木立さんという人がいるのに。咲江って気が多いな、美沙は思った。木立さんは『ル・シエル』の調理主任。ガタイがよく押しが強そうな人だ。
「中町荘よ。イケメンが住んでいるところ」咲江はまた言う。中町荘は中森不動産が所有しているアパートだ。築五十数年の古い建物で、低家賃でホテル・セントラルフォレストの社員に使わせている。何人も入居していないらしい。
 咲江は人事課なので社員のことをいろいろ知っているのだろうが、こんな個人的なことをおしゃべりしていいのだろうか、と思う。
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