第64話 歩夢

文字数 2,379文字

 そしてこの事件は、目まぐるしい展開で進行した。
 次の日、石原さんが店にやって来た。店員たちは、挨拶はするがよそよそしく接している。歩夢もその一人だ。石原さんはいつものように皆に返事を返す。そしてしばらく店長と奥の事務室で話をして、二人そろって出てきた。
「はい、朝礼を始めます」いつもの店長の言葉。
 ああ、普段どおりの仕事に戻るんだ。そう思った。
 続いて――、
「突然ですが、石原さんは本日付けで退職することになりました」
 店長の言葉に唖然とした。他の店員も驚いている。
「急でごめんなさい。理由は皆さんがご存じのとおりです。お世話になりました。ありがとうございます」石原さんはさばさばした表情で言う。
「辞表は先ほど本部に受理されました」と、店長。
「あたしの後任が来るまで皆さんには負担をかけると思います。お許しください」
 石原さんは深く頭を下げた。
 朝礼が終わると、石原さんはロッカー室に向かった。私物をまとめ、そのまま帰るのか。
歩夢は混乱した。そんな歩夢をよそに開店の時間になった。
 石原さんはまだ客のいない店内に戻って来て、一人ひとりに「ごめんなさい」と言って周る。 歩夢にも同じ言葉が届く。そして、通用口の方へ行く。
 え、こんな終わり方? 伝えることがある、はずだ――。歩夢は後を追っていた。
「あの、石原さん……」
 通用口を出た処で呼び止めた。だがそのあと、振り向いた石原さんにかける言葉が見つからない。
「高橋くん、いろいろありがとう。こういう終わり方でごめんね。キャッチフレーズに絵を付ける仕事楽しかったよ。特に近代文学の販促の仕事のとき、頑張ったよね」
 ニコリと笑う。そして、少し躊躇した様子を見せてから、あのね、と続けた。「高橋くんが女性と暮らしているのを、ある人から聞いたと言ったけど、あれは聞いたのでなくあたしが観たことなの……」
 続いた石原さんの話は――。
 歩夢との近代文学本の販促を誉められ、二人で居酒屋でお祝いをした帰りしな、歩夢が自分に好意を寄せていると感じた。
 ――そうだ、あのとき下の名前、朋美と呼んでいいか、と言ったんだ。歩夢は思い出す。
 石原さんはそのことで歩夢が気にかかり、住所を調べて行ってみた。そこで観たのは綺麗な女性だった。
 ――ああ、美沙を観たのか。
 その時はもう高橋店長と関係があったし、素敵な人と暮らしているんだ。それでいい、とあまり考えないことにした。
 で、昨日通勤途中に、歩夢から今一人で暮らしている、と聞いたとき少し心配したが、構わないでおこう、いや、自分に関わらせないようにしようと思った。
「高橋くんとのことは、いい思い出になったよ。それに、読ませてもらった小説も面白かった。今書いているのも入選するよう祈っているわ」
そう言うと、踵を返した。

 そのとき歩夢は知る由もなかったがが、石原さんは歩夢に関心があったからこそ歩夢の居所に行ったのだ。住所も前から調べて知っていた。けれど高橋店長を好きな自分もいた――。

 歩夢は呆然と見送った。何か伝えることがあったはずだ。何か言わなければ、と思うが、何も言えなかった。
 そんな歩夢の心情に関係なく事は進んでいく。午後倍賞専務が店にやって来て歩夢が呼ばれた。
 なんだろう? 石原さんのこと、は関係ないな。美沙と暮らしていたことが知れたのかな。それを叱責されるのだろうか。イヤ、そこまで立ち入ることはないだろう。などと考えながら事務室へ入る。
「高橋くん、どう? 小説の進み具合は」
 歩夢を迎えるなり専務はいつもの優しい笑顔で話しかけてきた。「もちろん文芸光談へのものよ」
 よかった。叱られるのではないようだ。椅子に掛けてひとまず安堵する。しかし、彼らに責があるとはいえ、貴重な人材が急に二人も辞めたのだから心穏やかでないだろう。それなのに僕のことを気にしてくれているのかと、思いながら応えた。
「ええ、しばらく進まなかったんですがここ数日はまあまあ書けています」
「まだ先だけど、締め切りに間に合うのでしょう」
「はあ、いけると思います。最悪、一作は大丈夫です」
「高橋くん、一作と言わず二作書き上げてよ。もちろん入選できるいい作品をね」
 専務の顔は真顔に変わる。
 え、このことで注意されるのか? これは個人の問題で、専務にあれこれ言われる筋合いはないよな……。
 不審そうな表情が出たらしい。
「心配しないで、叱っているのでないから。実は光談社の吉永さんから、金曜日にこちらに来るって連絡があったのよ。高橋くんにも連絡いっているでしょ」
「はい……、聞いています」と、応え思い出した。そういえば前回逢ったとき吉永さん文盛堂の本部に寄ったんだ。その後も連絡をとっていたのか。
「それで、進捗状況が気になってね」
 笑顔に戻った。「前回お逢いしたとき、協力すると約束したのよ。入選できるようにね」
 歩夢は、先週電話で光談社の吉永さんから責められたことを思い出した。進み具合を尋ねられ、今と同じように正直に応えてしまったのだ。強い叱責ではなかったのでさほど気にはしていなかったが。
しかし、吉永さん専務に何の用だろう? 出版社と書店の関係だけではないな。
「ざっくばらんに聞くけれど、時間足りているの?」
「えーと、書く時間ですか?」
「もちろん! 仕事を終えてからもすることがいろいろあるんでしょ。一人暮らしだし」
「え、あ~、大丈夫です」
 今さら、一人暮らしになったとは言えない。いや、もしかしたら知っているのかな? 歩夢は落ち着きを失った。
「そう、それならいいけど。困ったことがあったら遠慮なく言ってね」
「はい、ありがとうございます」
「あなたが入選すれば文盛堂にとっても大きな商機だから、大概の融通はきかせてあげるってことよ」
 専務は歩夢を観たまま言った。
 目は、先ほどと違って笑っていなかった。
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