第38話 歩夢

文字数 1,000文字

 一月後、初めての給料をもらった。翌日約束どおり食事に出かけた。当初せっかくおしゃれをするのだから、高級フレンチでと言っていた美沙だが、代金を歩夢が払うことを譲らないと、『ダンツァ』――チェーン展開しているリーズナブルなレストラン――にしようと意見を変えた。そんな美沙を歩夢は好ましく思った。
 ダンツァはイタリア料理が主体の明るい店だった。二人は、閉店近くまでおしゃべりをした。よくこんなに話すことがあるもんだ、と歩夢は自分でも驚いた。
 部屋にいるときはこういう時間はない。今の歩夢には夜九時までの遅番勤務もあるので特にそうだ。でも趣味の小説書きは不思議なことに、時間が取りにくい今の方が進む。
 歩夢が小説を書くときは、床にクッションを敷いて座り、ローテーブルのパソコンに向かう。ソファーの前面部に背をあずけると、ソファーに座っている美沙が両ひざで歩夢の脇を挟む。女の子が行儀悪い、と顔をしかめる人がいそうだが、美沙はこの状態が好きと言う。歩夢も包まれるような心地よい気分でパソコンを打つ。
 くつろぎのときも、あまりおしゃべりはしない。二人ソファーに座り、歩夢は本を読む。美沙は横で静かに音楽を聴く。ゆるりとした時間の流れに浸る。
 もちろん、熱く愛し合ってもいる――。

 中途採用の歩夢だが文盛堂の社員は皆快く迎えてくれた。特に親切にしてくれたのは同じ青葉城店の石原朋美さんだ。三十歳くらいで丸顔、今風にいえばぽっちゃりタイプ。接客態度も見ていて気持ちいいし、力仕事もこなす。さらに、彼女は手書きPOPも作っている。
 イラストがとても上手く目を引く。よく作るのは、可愛らしい動物の顔や胴を大きく描き、中の空白部分にフレーズが書かれているものだ。何度か話をしているうち歩夢が考えたフレーズも使うようになった。何て書こうか? と相談をもちかけられるようにもなった。歩夢も真剣に考えて応える。二三やりとりして出来たフレーズを独特の書体で描いて飾る。それを見ると歩夢も嬉しくなる。
 こうして文盛堂の仕事にも馴染んでいった。

 山々が紅葉で覆われ始めたある夜、歩夢に二本の電話があった。
 普通番で帰り、食後美沙と並んで食器を洗っているときだった。携帯が鳴った。それを話し終えて、切ったとたんにさらに一本。
 初めの電話は、妹の理沙からだ。父親の居所が判ったというものだ。
 もう一本は光談社、文芸部の編集者からだ――。
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