第11話 美沙

文字数 1,693文字

 翌日から交代で帰宅できることになった。美沙も昼から明朝まで帰れる。部屋がどうなっているか心配だ。通用口を出ると歩夢に会った。自転車のスタンドを下したところだ。
「あら早いわね、なんともなかった?」と訊いた。
「あ、ぼくは家具がほとんど無いので、片づけはすぐ済んだんです」
 歩夢のアパートは半壊とのこと。襖が開かなくなったり一部壁が剥がれたりはしている。被害といえばパソコンが棚から落ちて壊れたくらい。
「でも隣の部屋の人は食器戸棚とタンスが倒れて大変なようでしたが」
「え、怖いわね。あたしの処は大丈夫かしら?」
「どうかな? 新しい建物なら大丈夫じゃないですか。中は大変なことになっているかもしれないけど」
 家具類が倒れていたらどうしよう。弱ったな、という顔をしたのだろう、
「ぼく手伝いましょうか」と言われた。
 あの、昨日怪我の手当してもらったし、と傷バンを貼った手を見せる。
「いいの?」と問う。正直助かると思った。
「部屋にいてもしょうがないからホテルに来ただけだし」
 バスもどうか分らないから自転車に乗せて行きますと言って、歩夢はリュックを背中から下ろした。
「すみません、これ背負ってくれますか」と美沙に寄こす。重くはなかった。
 二人乗り。戸惑ったが荷台に横座りに乗った。後方に転ぶのではないか、と怖かった。
「道順を指示してください」走ると歩夢が言った。美沙は歩夢の腰に掴まる。意外に歩夢の背中は広かった。厚手のブルゾンを通しても判る。
 自転車に二人乗りさせてもらうのは初めてだ。怖いと思ったが走りは安定しているのですぐ慣れた。通りのウインドウは見るに忍びない状態になっているが、冷たい風を切るのが気持ちよかった。
 コーポひまわりの建物は無事だった。恐るおそるドアを開ける。物が散乱し、照明器具が落下、タンスと冷蔵庫が移動している。これは一人じゃ無理だ。
「女性一人じゃ無理ですね」歩夢も同じことを言う。「ぼく、役に立てそうだ」
 二人でタンスと冷蔵庫を所定の位置に直す。冷蔵庫の氷が溶けて床を濡らしていた。歩夢が床を拭いてくれた。照明器具や食器の破片を拾い集め、丁寧に掃除をする。食器棚のガラスなど、修繕が必要なところはあるが、ひととおり片付いた。気が付くともう夕刻だ。
「ありがとう、助かった」美沙が言う。
「どういたしまして」歩夢は小さな笑顔を返す。
 そして思い出したように、おお、そうだと言いリュックを開けた。
「あの、これ使いませんか」キャンドルを取り出した。三本ある。たまたま結婚披露宴で使ったキャンドルがあったので、他の人たちと分けて、貰ってきたのだと言う。停電中の灯りとして。
 三本の中から二本寄こす。リュックを閉じ、帰り支度を始める。
「それじゃ、遠慮なく使わせていただくわ」と、受け取った。ふと、
「あ、待って。ご飯食べていきませんか?」と美沙は思いついて言った。「あるもので……」
 さきほど戸棚と冷蔵庫の食品を整理したとき見ていた。
 トマトのマヨネーズかけ。鯖缶の大根おろし添え。食パンにジャムをつけて。デザートは、皮が茶色に変色しているバナナ。
キャンドルの灯りを挟んで二人は食べた。向かい合うと会話が少くなった。でも、なんか素敵な晩餐だわ。美沙は思った。
「食料品をフツーに買えるようになったら、ちゃんとしたお料理でお礼します」
 美沙の言葉に歩夢は、いや気を遣わないで、と返事をしようと思った。が、
「いや、それは……。楽しみにしています」と応えていた。
 食事を終えるころになって会話が多くなってきた。
「高橋さん、気になっていたんだけど、昨日あたしの名前を聞いて、ちょっと顔が曇らなかった?」
「あ、やっぱりそう見えました? あのとき、最初りさって聞こえたんです。理沙はぼくの妹の名前で」
「あ~それで、いさご(・・・)の意味を知っていたんだね」
 その妹さん……と、何かあったの?
 キャンドルの炎が揺れている。
 ――明るくて、しっかり者の妹だった。
 揺れるの炎の向こうに美沙が見える。
 ――ぼくが大学に合格したときは一緒に喜んでくれた。なのに。
 キャンドルの炎に誘われて、歩夢は、長い話を、語った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み