第8話 歩夢

文字数 1,801文字

 四月、歩夢の部屋に妹の理沙が訪ねてきた。高校を卒業して調布市にある電子機器の部品工場に就職することは聞いていた。そこの社員寮に入居したのだ。歩夢は理沙が自分より辛い目にあっただろうと思う。父親がパート店員と逃げたことは、高校や町内ではすぐ噂になった。いたたまれない思いで町を離れ、祖母の家へ。志望などしてもいなかった転校先の高校を卒業した。してやれることはこれまでだ、と母親は話したという。
 理沙は歩夢に逢えて嬉しいようだ。
「お兄さん、部屋あまり掃除してないでしょう」
 確かに掃除は月に二三度くらいか。
「ああ、窓を開けておけば埃は飛んでいくよ」
「入ってくる埃もあるでしょうに。しょうがないお兄さん。あたし、お休みの日に来て掃除してあげる。留守のとき来てもいい?」
 それじゃ頼むと合鍵を渡した。世話を焼くのが好きなんだ。以前から行動的だったな。
 お風呂は入っているの? 着るもの臭くなっていない? とハンガーラックのカバーを開けた。中に吊ってある衣類をみて、まあまあね、と安心している。
 アルバイトとはいえ、ぼくだって仕事にでるのだからそれなりにやっている。
 でも理沙のほうがしっかりしている。一人でも、ちゃんとやっていけるだろう。
 二年ぶりに会った理沙との話は尽きなかった。頑張ってお金を貯め、復学すると理沙に約束した。自分の決意としても。
 それから理沙はよく来るようになった。歩夢と休みが合う日は、楽しみが増えた。
 ある日、工藤から電話がきた。久しぶりに飲まないか、と言う。
「あまり金を使いたくない」と応えた。
「それじゃ、酒を買ってそっちへ行くよ。今度の休み何時だ」と訊く。
 休みの日をおしえて電話を切った。工藤は二度勤めを替えたことは聞いていたがその後のことは聞いていない。今は仕事をしていないのかな、と思い気が付いた。その日は理沙が来る日だった。時間がずれているからいいか。
 その日、理沙は総菜を買ってきた。
「いっしょにご飯食べよう」
「いいけど、どうしよう。夜、友達がくるんだ」
「じゃ、待っていよう。三人の方が賑やかでいいでしょ」
 理沙は歩夢と違って外交的だ。いい性格だと思う。今後プラスに働くだろう。
 工藤は、ギターを持ってやって来た。
 部屋に入ると工藤は驚いた。「妹がいるなんて言ってなかったよなー」
 家族のことを話すと、父親のことも言わなければならないので、話題を避けていた。 
 いつになく楽しい食事になった。
 工藤は、路上ライブをしてきたと言う。
「ストリートミュージシャン? かっこいい」と理沙。
「ちょっとした小遣い稼ぎさ」
 工藤はギターを弾いて、歌を唄った。ライブでやったのとは違って、聴きやすい曲だった。
「これは、大衆向け」笑って工藤は言う。「本当のおれは、魂が(ほとばし)る歌なんだ」
 ライブハウスでの叫びがそうか。
 歩夢がトイレに行っている間に、理沙と工藤がケータイの番号を交換していたことを知らなかった。

 その後理沙は以前より部屋に来ることが少なくなった。たまに来ると工藤のことを話題にする。会っているようだ。心配になった。歩夢の友達なので気を許したのだろう。工藤は歩夢に親しみを持ってくれているが、真面目な人間ではないと思う。かといって、理沙に彼は真面目でないから会うのは止せと言うのもはばかられる。しっかりしているといえ理沙はまだ十九歳。気にはなったがきっかけを掴めず、何もしなかった。工藤からの連絡も無くなっていた。
 このとき電話をするなりして、強引にでも止めさせておけば良かった――。
 理沙はライブを観に行ったりチケットを売ったりもしているらしい。
 先日来たときは「今度、一大イベントをやるのよ」と興奮して話した。
 小さなライブハウスで満足しておけばいいのに、あの奇異な演奏では成功しないだろうと思った。いや、むしろ失敗して理沙が離れてくれればいいなとさえ考えた。工藤は理沙にはふさわしくない。
 そろそろ霜が降りるかなと思える頃、ホテルから戻り部屋の灯りを点けた。
「おや、理沙が来ていったかな」部屋が片付いていた。見回すと、机に紙が置いてあった。
<お兄さん、ごめんなさい。必ず返します。ヒロがイベントをやるのに足りないのです>
 ヒロとは博信、工藤のことだ。
<成功すればお金が入るので、それまで貸してください。ヒロの力になりたいのです。必ず返します>
 通帳と印鑑が無くなっていた。
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