第68話 美沙

文字数 1,554文字

 美沙は、当てが外れたと思わざるを得なかった。企画広報課に異動後すぐその仕事を始められると思っていた。
 ところが異動の五日前に、制服を合わせると言われた。
 え? 経理と同じ制服のはずだが――。
 不思議に思って指定された部屋に行くと、レストラン『ラ・メール』の制服が用意されていた。担当女性は制服合わせの理由の詳しいことは解らないそうだ。
 入社時の号数が判っているので、制服合わせはすぐ済んだ。体形は変わっていない。かえってレストラン『ラ・メール』の方は半袖なので違和感がない。袖丈は、経理――事務部門のものは美沙には少し短いのだ。というより美沙の腕が長いのだが。
 終わると、美沙が呼ばれていた塩谷企画広報課長と中森部長のもとへ行った。この二人なら分るはず。
 応えは、予想通り企画広報に籍を置いて『ラ・メール』の業務を行うことだった。
『ラ・メール』の後は、二三週間くらいのサイクルで各レストラン、宴集会、売店、客室なども体験させるという。もちろんミスなどでお客様に不快な思いをさせないためお目付け役(・・・・・)が付く。
 ――あたしもう四年以上勤めて、それぞれの業務内容も知っているのに……、実体験なんかしなくてもと思った。
 だがもう上層部が決めたことだ、言うだけ無駄かと諦めた。その表情が顔に出たらしい。中森部長が言った。
「企画広報課は言うなれば、当ホテルの中枢神経だ。今いる課員は大卒だけだが、いきなり企画広報に配属になった者はいない。皆どこかの部署から配置換えになった社員ばかりだ」
 そうだっけ? ――そういえばフロントから異動になった人が多いな。それと、彼らもいきなりフロント配属されたのではない。試用期間はレストランや客室でも実習している――。美沙は思い出した。
「それと小関さん、実習ととらえないで、それぞれの部門での売上げ増進のネタを仕入れると考えて」ここが大事だという表情で、「今後の仕事に必ず役に立つ。特に君の実習は……」中森部長は目に力を込めて言った。「他の課員より、多くの部門を、長い期間するんだから。いっぱい身に着けて斬新なアイデアを提案してくれ。期待しているよ」と言う。
 それと、実習中は休みが土日に限らなくなるけどそれは了解しているよね、と続けた。
「はい、問題ありません」
 と応え、かえっていいわ、と美沙は思った。歩夢と休みを合わせられることが多くなるし。
「そうか、良かった! あと正式に企画広報の業務に付く前に休暇は取っておけよ」と言ってくれた。
 つまり企画広報では休暇が取れないということだな、と思った。
「スケジュールを組む都合もあるだろうから早めに申し出てな」との中森部長の言葉を耳に残して、美沙は休暇をどう使おうかと考えた。
 ――経理と違って、その間の伝票が溜まるわけでないし、心おきなく休める。
『ラ・メール』の実習は二週間だ。それが終わったら休暇を取ろう。思い切って一週間くらい! 二三日でも歩夢と過ごせればいいけど今は無理だろうな? 執筆の邪魔になるだろうし、というより歩夢三日も休めないよね。う~ん、実家に帰って何もしないでぼ~っとしていようかな。――などと考える。

『ラ・メール』での業務体験の間、一度歩夢のアパートへ行った。歩夢は以前と変わりなく優しく接してくれた。ただ、泊まっていけば? とは言ってくれなかった。翌日は遅番なので一応泊まる支度はしてきたのだが。
「ゆっくり過ごせなくてごめんね。今は作品に注力するように言われているんだ」と、歩夢は話す。
 解る。だが理屈とは違う何かが歩夢を責める。
 ――眠る時間を一緒に過ごすだけでいいのに。それなら執筆には関係ない、と思うけどな? 寝ないで書くなら別だけど――。でも歩夢のことを理解しないといけない、と今度は自分の身勝手さを責める。
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