第５４話　美沙

　人事異動内示回覧にある自分の名を見ても美沙は驚かなかった。あった、と口の中で呟いたくらいだ。内々に三浦課長から聞いていたのだ。それより別の人の方が気になって見ていく。
　中森次長が営業企画部長。うんうん妥当なところだ。支配人が総務部長兼務を解かれる。支配人職に専念することか。すると総務部長は？　石原聡美――。本部からの出向だ。いしはらさとみ。聡美の字は違うが人気女優と同じ名前だ。それで、おじさん社員がわーわー騒いでいるのか。おばさん社員も出演したドラマでどうした、など話している。ここの事務室はおじさんとおばさんがほとんど。若い社員は美沙だけだ。こういうとき話ができる歳の近い女子がいればいいのに、と思う。咲江とはよくお喋りしたな。今どうしているのだろう。でも石原聡美に会うのは楽しみだ。部長で来るくらいなので、きっと頭がきれて、しかも美人なのだろう。
　驚いたのは三浦課長が総務部次長に昇格したことだ。先日美沙に四月から主任だよ、伝えてくれたとき、やけに嬉しそうだった。そんなにあたしのことを喜んでくれるのかと感激していたら、自分の昇格を知ったからか。すると成田課長の上司になるんだ。成田課長は悔しいだろうな。でも三浦課長はあと二年で定年のはず。花を持たせた？　そんな温情で人事はしないだろう。
　それと、三浦課長の後釜の経理課長は昨年辞めて実家に帰った山田さんだ。山田さんが復職することは聞いていたが、課長でとは思っていなかった。やはり温情ではここまでしない。池田社長・支配人のコンビは思い切ったことをする。事情があるとはいえ、一旦辞職した人を復職、しかも管理職で迎えるなどなかなかない。美沙には嬉しい驚きだった。
　その山田さんが、午後に箱菓子を持って挨拶に来た。美沙は走り寄って抱きつきたかった。
　山田さんは震災でご主人を亡くし、家も流され住む場所も無くなったので、子供たちを連れて実家に帰った。ただ、実家は子供たちにとって不便な場所だった。学校は統合されて遠い。スクールバスでの通学だ。それはまだ我慢できるとして、下の子二人が大好きなサッカーを出来ないのが可哀そうだったそうだった。それに山田さんも適当な仕事がない。そんなときホテルは解雇した社員――ほとんどがパート店員だったが――に復職の声をかけていた。山田さんは辞職だったが、そんなことにこだわらない社長・支配人コンビは望んで復職させた。幸い手ごろな住居も見つかった。
　住宅事情も良くなっているんだな。着実に復興している。と美沙は思った。

　山田さんの復職で嬉しい気分だったのと、文盛堂で歩夢の提案が上手くいったと聞いたので、美沙は主任昇格と合わせてお祝いをしようと歩夢を誘った。前に行ったイタリアンレストランでのデートがとても楽しかったのを憶えていた。歩夢との一度だけのデート。お祝いの食事はそのレストランにした。
　歩夢は同意したけれど、あまり乗っていないようだ。文盛堂の人たちとの飲み会の方が楽しみなのだ。きっと。レストランで美沙は懸命にしゃべった。歩夢に他のことを考えさせないように。その甲斐があって、楽しんでくれたようだけど。なんか疲れた。
　二日後に歩夢は文盛堂の人たちと飲んで、帰ってきた。いつもは文盛堂の人たちと飲んで帰ると何か物足りなさそうで、ビールを開ける。そして、体を求めてくる。少し荒々しく。あたしは優しくしてくれる方がいいけど、これはこれで悦びがある。だが、この日はすぐ寝てしまった。歩夢はベッドの横に布団を敷いて寝る。ベッドで二人ひと時を過ごしたときは、一緒に寝ることもあるが、寒い冬や、暑い夏はだいたい布団に移る。
　飲んできたのに、翌朝早く起きて自分の小説をプリントしていたのに驚いた。職場の人が読みたいと言ったので早く読ませたいと。で、夕食のときに訊いたら、その人は――ちらっとイシハラと言った気がするが――お休みで、早起きする必要はなかった。何やってんだか。その夜の歩夢は様子が変だった。何か考えているというかぼーっとしているようで。理由は光談社から小説を書いてくれないかと依頼があったとのこと。それを何て言ったっけ、そう邑山文学新人賞に推薦してくれるって。あたし協力して、絶対その賞を取ってもらおう。そう話していたら、久しぶりに理沙ちゃんから電話があった。歩夢のお父さんがお母さんの元へ帰ったって。いいことだと思うんだけど、歩夢は難しい顔をしていた。歩夢は父親に冷たいと思う。事情を聞いているので気持ちは解らないではない。でも母親をもあまり気にかけていないようだ。家族への愛情が薄いと思う。歩夢の父母は家業が忙しくて、あまりかまってくれなかったそうだが……、それだけなのかな。
　理沙からの電話で、美沙は歩夢について考えてみることになった。