第56話 美沙

文字数 2,011文字

 やはり青葉城店へ行ったことは歩夢に黙っていよう。歩夢を不審に思って行ったので話しにくい。
 それにあの石原さん、大柄なので、初めおばさんかと思ったが、三十代だろう。笑顔が魅力的で、話しているときの感じの良いこと。きっと皆に好かれているんだろうな。歩夢もその中の一人だ。そう思おう。もうこういうことは、うじうじと考えないことにする。
「ただいま」
 ドアを開けると、歩夢は掃除機をかけていた。「あら、何しているの。家事はあたしが全部するって」
「そうだけど、やっぱり元の生活のリズムの方が書けそうな気がして」
 そうなのだ。仕事以外の時間はなるべく多く執筆に充てるようにしているが、それで(はかど)っている訳でない。逆に苦しんでいるのが判る。
「今日から普段どおり家事もするから」と言うと、また掃除を始めた。
 締め切りはまだ先だけど、いいのかな? ちらりと思う。

 数日後、久々に歩夢と休みが一緒になった。歩夢が土曜日に休みになるのはなかなかない。前の日、寝る前に「明日は一日のんびり過ごしましょう」と言ったら、午前中出かけてくると応える。思わず何処へ? と訊いた。
 大学のときの友人に会いに行くと言う。
「さっきの電話ね」夕食後歩夢に電話があったのだ。
「大学の友人って聞いたことないけど、親しい人いたっけ?」
「文芸サークルの先輩なんだ。東京へ行く途中仙台に寄るって」
「そうなんだ。それじゃ何時間も会えないね」
「うん、二時間くらいか」
 美沙は三月のことを思い出した。電話がかかってきた翌日、遅番だったが午前から出かけた日のことを。
 思い切って訊いた。ぐずぐずするのは止めたのだから。
「その人に先月も会ったんでない?」
「え……。うん」
「女の人?」
「別に隠そうとしたんでないけど――」と歩夢。
 そりゃそうだ。隠そうとするならもっと上手くやるだろう。あたしに言わなかっただけなんだ。何でもかでも言う必要もないし。だけど、あいつ(・・・)長話なんだ、なんていかにも男相手のように振舞うから、あたしも変に勘繰るじゃない。ま、女性との長電話は都合が悪いよね。
「――彼女も小説書いていてね、見せてもらっているんだ」
 そして美沙が訊きもしないのにその人のことを話した。太宰治の熱烈なファンであること。読日新聞の青森支局にいること。東京の実家へ帰る途中仙台に途中下車してくれること……など。
「いい文学仲間なんだね。その――何ていう名前?」
 歩夢は少し言い淀んだが、「へへ、深田京さんっていうんだ」と言った。
「そうなんだ」
 歩夢のペンネームはその人からとったのか――。
 美沙はこのことを訊き返さず、話を終わりにした。

 ゴールデンウイークが終わると、ホテルは少し落ち着く。総務部では石原さんの歓迎会をすることになった。三浦次長など昇格した人たちのお祝いも兼ねて。
 幹事は会場を自社ホテルでと考えていたが、逆に石原さんは、もう数回ホテルを使ったのでたまには別な会場がいい、と言った。部長級懇親会や接待などがあったのだ。普通こういう場合、主賓はあれこれ要望しない。だが石原さんは普通とは違うキャラクターだ。それでいて話し方に愛嬌があり嫌味を感じさせない。仕事も自分がバリバリするというより、上手く部下を動かす。三浦次長も生き生きと仕事をしている。しょぼかった課長時代しか知らない人は驚くだろう。実際、一旦辞めた山田さんはそう言っていた。
 歓迎会は近くにある中国料理店の宴会場で行われた。お酒をあまり飲まない美沙だが、久々に楽しんだ。
 会は九時ころにお開きになり、皆三々五々散って行く。美沙がそれらに混じって出口へ歩いていると、個室に入っていく二人連れが目に入った。
「あの人……」
 思わず呟いた。隣を歩いていた山田さんが、え、知っている人? と聞いてくる。「いや、チラリと見えただけだから。違うかも」と応えた。だが、歩夢の職場、文盛堂青葉城店の石原さんだ。丸顔でぽっちゃり、間違いない。連れの男性はかなり大柄だ。
 ご主人かな? そう思ったが、二人は違う雰囲気を醸し出していた。
 部屋に帰ると歩夢は本を読んでいた。再び家事をするようになったので、短い時間を執筆に集中する、とはならないようだ。
「おかえり。楽しかった?」歩夢は本から目をあげて言う。
「うん、山田さんといっぱいお喋りしちゃった。それより、ご飯食べた?」
「コンビニのおにぎりで済ませた」そう言うとまた、本に目を落とした。
「そう。今日は小説書かないの?」
 美沙はつい言ってしまった。歩夢は意外そうな顔で美沙を見た。少し時間をおいて、
「今はエネルギーを溜めているんだ」と言うと、本に目を移した。表情は見えなかった。
「あ、ごめん。余計なことを言っちゃった。新人賞の話があったときすごく張りきっていたから……、そのことを思い出しちゃって」
 返事は無かった。
 美沙は、歩夢の気分を害したかな、と思ったが何事もなく過ぎた。一週間は――。
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