第66話 歩夢

文字数 1,566文字

 吉永さんは読み終えて、しばらく思考していた。
「あのね、前に送ってもらったものにも言えることなんだけど、人物の描写、心理とかね、それは上手いと思う。でもそれを効果的に引き立てるものが足りないな」
 歩夢の目を見て言う。「最後の二枚なんて、人が動いて話をしているだけでしょう。木々の中を歩いたって書かれてもね……。陳腐だと思わないの?」
 ずばり言い当てられた。歩夢は自分でもそう思っている、と応えた。
「解っているんだ。とりあえず書いたってところ? わたしが来るので枚数を稼ごうとしたのかな。というより、執筆に集中していなかったのでしょう」
 吉永さんは歩夢の目を覗く。
「はい、すみません」
「やはりね。それにしても、せめて何の木かくらい書いてよね。読者に映像を思い浮かべさせるような背景の表現も大切よ。——そうね、普段でも景色を観るときなんかその表現を考えてみるとか。ただ漫然と観るのでなく」
「はい、気をつけて観るようにします」
「この舞台、旭川でしょう。その並木を思い浮かべて。欲を言えば、木の名前だけでなく木々の形状まで表現できれば尚いいけど……。とりあえず、自然を観察する癖をつける。ま、ここ以外はまあまあの調子で書いているから、とりあえず良しとするか」
 ところで、そう言うとぐるりと首を廻す。「コーヒーをごちそうしてくれないかな」と緩い表情になった。
「あ、気が付かなくて」歩夢は立ち上がって薬缶に水を入れ、ガスにかけた。——美沙のコーヒーカップを使うしかないか、と、考えて、棚のカップに手を延ばす。美沙のカップは同じデザインで色違いだ。
 すると、横に立った吉永さんは「わたしのはこれにしてちょうだい」と歩夢が使っている湯呑を指した。
「こっちは、あなたの大切なひとのコーヒーカップなんでしょう。その方が選んだのかしら」
「あ、はい」
「素敵なコーヒーカップね。きっと……いや、いいわ」
 吉永さんは言いかけたことを留めた。
 その後吉永さんはコーヒーを飲みながら作品のこの後の流れを聴き、それについてときどき質問をし、意見を言った。
「今のわたしの意見は、参考でいいからね。あくまであなたの書きたいように書いて。書きあがったのを読んでからは少し言うかもしれないけど」と、笑って見せた。だがそのあと、表情を引き締め「それと、率直に言うけど、欲というか、絶対賞を取ろうという意識が少し甘いように感じるかな。仕事をしながらなのは解るけど、賞を狙っている他の人たちにもそういう人はいるのよ。前にも言ったけれど、もう趣味では済まされないの」
 と、外で車が停まる音がした。そして、クラクションの音——。
「あら、時間だ」吉永さんは時計を視る。「さっきのタクシーの運転手に予約しておいたの。一時に倍賞専務と逢うことになっているのよ。少し遅いお昼を食べて、それからいろいろとね」
 ニコリと笑って歩夢を見る。
「高橋くんは今度ね」と立ち上がった。
 わたしも出来るだけサポートするから、あなたも……言いかけて、歩夢の前にあるコーヒーカップに目が移ったようだ。
「いい恋は、作品の肥しになるよ。でも今は、あまりのめり込まないで。賞のことを第一に考えて」と話を変えた。さっき言おうとしたことだろう。
 歩夢も自分のコーヒーカップを見る。自然に美沙のことを考える。いや想う。
《美沙に、胸が焦がれるような想いをしたことがあったろうか?》
《帰省する美沙に言った、あの言葉「美沙……、好きだよ」は本当だ》
《動き出した電車からの美沙の返答に、心が躍った――》
「それじゃ次回を期待しているよ」
 吉永さんの言葉に歩夢は覚醒した。
「さっき、いい恋と言ったけれど、破れる恋も肥しになることもあるよ」
 と加えてドアに手をかけた。
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
 そう言って歩夢は見送った。
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