第23話 美沙

文字数 1,485文字

 抱えられるようにして部屋に入るとベッドに倒れた。成田課長は「大丈夫か?」と顔をのぞきこむ。トイレで吐くと少し気分が良くなった。水を飲み、しばらくベッドに横になる。
「楽になった?」と言う課長は、たくらみが顔に表れている。
 頭が痛いながらも、徐々に正気がもどってきた。
 ――とんでもない処に来てしまった。
 でも顔に出さないで、課長すみません醜態を見せてしまって、と言い、「あたし、もうだいじょうぶです」と立ち上がろうと、つい課長の腕を掴んだ。
 課長は、ん? と、眉を上げて自分もベッドに座った。「そう」と、一人頷いて美沙を見つめる。
 え? あ、違う。
 成田課長は体を横にひねって肩を抱いてくる。逃げられるとでも思っているように、指に力がこもっている。
 どうしよう。叫ぼうか。いや、大事になってしまう。上手に断ろう。
「課長、あたし吐いたばかりだし」
「僕は構わないよ……」まだ肩から手を離さない。
「それにこういう処イヤです」
「いまさら。なにを」
「あたしはイヤです。……あの、とても具合が悪いので、許してください。今日は帰りましょう。ごめんなさい」
「え~、そうか」
 しぶしぶ、残念だなと言う。未練がましい顔をしながらも、なんとか諦めてくれた。
 だが、その場を凌ぐため、含みを持たせてしまったようだ。
 送るという課長をいさめて、頭痛に耐えながら、やっとの思いでアパートに帰った。
 それからの課長の扱いには困った。課長はあのとき、逢瀬の約束をしたと思っている。次は何時がいい? また居酒屋の方がいい? などと言ってくる。初めはのらりくらりとかわしていたが、だんだんそれが通じなくなった。時には歓心を買うような、時には押し付けがましい文を送ってくる。
〈この前は介抱するの大変だったよ〉
〈美沙ちゃんに肩を貸してあげたのが嬉しかった〉
 人に聞かれてはまずい内容なので、社内メールを使っている。
 やんわり断っても解らない。いい年して、空気読めない人だな。
〈今度は、あまり飲まないようにしようね〉
〈今度は気が変わらないで〉
 自信過剰なの、バカなの? 今まではただ禿げたおじさんと思っていたが、疎ましさが嫌悪感に替わった。返信を送る。
〈誤解させてしまってすみません。私には本当にその気はありません。もう止していただけますか〉
 だが、メールはさらにえげつないものになった。
〈あのとき、その気になったのは分かってるよ〉
〈あのとき美沙ちゃんが可哀そうだから我慢したんだよ〉
 同じ事務室で仕事をしているので雰囲気を悪くしたくなかったが、しょうがない。こうメールしてやった。
〈これ以上私にかまうなら、今までの課長からのメールを他の社員に転送します〉
 成田課長は静かになった。

 美沙は課長を破滅させるスイッチを握っているようなものだ。メールを転送されたら会社に居られない。たまに怯えとも懇願ともつかない課長の目を見ることがある。それをネタに脅かす訳でないが、社用の件を課長会議で取り上げるよう提案した。
 二人だけで話すと妙な誤解をされると思い、課長の席へ行って話した。
 課長は、「解った。会議で訊いてみよう」と承諾した。表面上は平然と。
 断られないとは思っていたが、引き受けてもらってすっきりした。下駄を預けることになったことは心苦しいが。ただ震災の混乱と、営業再開から間もなくて、準備が整っていないので、課長会議は二ヶ月後になるとのこと。
 この会話は周りの課員たちにも聞こえていた。皆一様に驚いていた。
 美沙は課長に預けたつもりになっていたが、人の口はそうさせなかった。美沙が(けしか)けたとの噂が拡がっていく。
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