第63話 歩夢

文字数 1,833文字

 九時少し前にスマホが鳴った。モニターを観る。深田さんからだ。軽く息を吸って、タップする。
「はい、タカ」……ハシです、と言い終わる前に、
「こんばんは~」
 いきなり明るい声が響いた。
 少し緊張していたのが一気にほぐれる。文芸サークルにいた頃には想像も出来ないほど変わった。毎回そう思う。
「ごはん食べた?」
 まだなら一緒に食べない? とでも言いそうだ。え! もしかして仙台に来ているのか? 一瞬そう思った。もちろんそんなことはないので、
「食べたよ。コンビニの弁当」
「あたしはこれから。今日は仕事が早く終わったので炒め物とだし巻き卵を造っていたの。今出来上がったところ。食事はね、なるべく造るようにしているんだ」
「それは、いいね。一度食べてみたいものだ」
 冗談で言った。
「そうね、何時(いつ)か機会を持ちましょう。あたし結構料理を造るの好きなのよ」
 えっ。思わぬ返答に歩夢は反応が出来なかった。深田さんの料理を、ぼくに……
「高橋くんに仙台を案内してもらう約束していたから、その時でもいいし、もし高橋くんが青森に来ることがあったらその時でもいいわね」
 そう言うと、「おっと今日の本題だけど」と、話を変えた。
「あたし来週の金曜日東京へ帰るんだけど、また作品を交換しない? 新しい作品を書いたの。ちょっと自信作かな。それを持って寄るから。それと、久しぶりにお話もしたいし」
 歩夢にとって願ってもないことだ。そして、もし深田さんが料理を造ってくれるならなんと素敵だろう。だが思い出していた。休みの日だが、タイミングが悪い。その日は光談社の吉永さんが来ることになっていた。このときばかりは吉永さんを恨んだ。身勝手な思いだが。
「うわ~。ごめん、その日は光談社の人と会うことになっているんだ。コンテストの作品についていろいろ、つまり、喝を入れに来るんだ。うわ~、会いたいのに」
 本心だが、少しふざけた言い回しをした。実際、吉永さんには進み具合が遅いと言われていた。
「そっか~。そうだよね。高橋くんには編集者がついているんだよね。小説家さんだもんね」
「いや、そんなこと」
 歩夢は悪い気はしなかった。「あの、青森へ帰る途中に寄るのは難しいよね。日曜日に」
「う~ん、土曜は大学の友だちの結婚式なの。そのあと二次会に流れる(・・・)はずだから日曜の午前はゆっくりしていたい、というより二日酔いね」
 フフフと笑って「次の機会にしよう」。あっさりと言った。
「そうか……、早めに、その機会を造ろう」
 残念だがそう言うほかなかった。
「でもあたしの小説の講評は早く聞きたいから先に郵送するわね」
 歩夢は一瞬だが光談社へ提出する作品の執筆の時間が削がれるな、と思った。でもいくらでも挽回できる。深田さんに応える喜びは大きい。

 翌日出勤すると、昨日石原さんが本部に呼ばれて行ったことが噂になっていた。そうか、慌てて帰ったのでなく呼ばれたのか。そういえば、石原さんが出勤していない。今日は遅番ではないはずだ。本部にはいいことで呼ばれたのではないらしい。
 朝礼で店長は、今日は石原さんがお休みする旨連絡があったと言った。理由は言わなかった。昨日本部に呼ばれた理由を店長は知ってはずだが、そのことの話もなかった。石原さん、何かミスしたのかな。いや、ミスくらいで本部に呼ばれることはないだろう。不正をするような人ではないし、歩夢は気になるが考えてもどうなることでない。
 ところが、話は広がるのが早いようで、夕方には女子店員が話しているのが聞こえてきた。どうやら石原さんは、駅前店の高橋店長と不倫の仲だったらしい。本部のある本店の店員からの情報だが、高橋店長の奥さんが本部に相談に行ったとのことだ。
 歩夢は信じられないな、とふわふわと聞いていた。でもそれはあるかも、とも思っていた。

 ――後で分ったことだが、相談に行ったのでなく事実関係を調べるよう頼んだのが本当らしい。
 専務は、当初取り合わないつもりでいたが、相手が同じ文盛堂の店員、石原さんというのであれば聞かざるを得ない。そして昨日、高橋店長に聞いたらあっさりと認めた。石原さんにも確認をしたがその通りとのことだった。そして……、高橋店長はその日のうちに辞表を出した。
 なんとも高橋店長らしい。
 歩夢は新年会で隣の席になった高橋店長を思い出した。石原さんのことを、俺惚れているんだ、と言ってわははと笑った時のことを。あんなにおおっぴらに言われると不倫のような陰湿なことは思わない。
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