第44話 歩夢

文字数 2,524文字

 料理をある程度食べると、席を動く者が出てくる。ビール瓶を持って無沙汰している人の所に行き、挨拶をして注いで歩いている。空いている椅子に座り語り合う人もあちらこちらで見られる。
 高橋店長も「一回りしてくるわ」と言うと、よっこらしょと立ち上がる。目で追うとビールを注いでは、何か言って歩いている。歩夢は他店の人はまだ知らないので席にいるしかない。
「いっしー、元気か」
 大きな声が聞こえた。高橋店長が石原さんのテーブルに行ったのだ。石原さんは、年上の男性からは「いっしー」と呼ばれている。青葉城店の人たちと飲んだときにそう呼ばれていたので知った。
「今年もよろしくな。お~、またまたキレイになったじゃないか」
「やだ、店長。からかわないで。わたしもう三十路を過ぎたのよ」
 石原さんの声も聞こえる。
「いやいや、その年ごろが一番いいんだ。熟れ頃、食べ頃」
「なにそれ、セクハラよ」
「おっと失礼。つい本音が。いや、違った。いっしーは魅力的だと言いたいんだよ」
「やめてよ、相変わらずななんだから。もうあっちへ行って」
 はっはっは、また後でな。そう言って高橋店長は石原さんの席から離れた。
 歩夢は、つい聞き耳を立てていた。冗談を言い合える仲なんだ。 
 僕は石原さんと冗談を交わしたことなどないな。
 ぼんやりとそんなことを思っていると、「――高橋さん」と隣の天童さんが呼んでいた。「社長たちが帰るって」
 皆さんはゆっくり楽しんでね、と言って会場を出る倍賞専務と社長を、皆は目で見送った。
 その後はわいわいがやがや、と盛り上がる。
 石原さんは多くの人に人気があるのか、あちこちから声をかけられる。
「よぉー、いっしー。久しぶり」「いっしー、こっちに来いよ」「いっしー、相変わらず元気だな」「一緒に飲もう」
 石原さんは、笑顔で皆に応え、楽しそうにそれぞれの所へ動いていく。
 歩夢にも隣の天童さんや、他の人が何人か話しかけてくれる。天童さんも他の人も小説のことを訊いてくる。丁寧に応じてはいるが、何故か気が乗らなかった。

 石原さんと初めて飲んだのは、歩夢の歓迎会を青葉城店の皆が開いてくれたときだ。ほとんどの時間を歩夢の隣に座って仕事のことや、働いている店員のことをおしえてくれた。朗らかに話す声は聴きやすい。それと、話すときの仕草や表情がいいと思った。
 歓迎会は二時間くらいでおひらきになった。歩夢はもっと居たかった。楽しかったのだ。だが、
「さあ、みんな、帰るよ。二次会は無し」とその場を仕切る。店長はフフと笑って頷いた。お酒を飲まない人なので異議はない。他の人も従ったようだ。
 歩夢は名残惜しい気持ちを抱いてアパートへ向かった。着くと待っていた美沙に、突如欲情が湧いた。酒臭い、と美沙は嫌がっていたが、欲求は収まらない。いつもならゆっくりと気分を高めてから始めるのだが、その日は、そんなまどろっこしいことをする気にならなかった。だまかすように二人でビールを飲んで抱き寄せると、許してくれた。
 その後何度か、石原さんも入れた青葉城店の人たちと飲みに行った。石原さんは飲み会が好きなようだ。さすがにもう歩夢に付きっ切りはないが、歩夢の目に入る石原さんは動きのあるいい表情を見せていた。仕事とは違う少しくだけた会話は聞いていると楽しい。時々視線が合うとにっこりと笑顔をくれた。気分が良くなる。飲み会は大抵二時間くらいで散会する。毎回歩夢にはもっと楽しんでいたい気持ちが残る。
 楽しさの続きを美沙に求めるのだろうか、帰ると美沙を抱きたくなる。そして、そうした。
 もちろん飲み会のない日の方が多い。二人は仕事へ行き、時間が合えば一緒に料理を造り、音楽を聴き、本を読む。そんな変わらない日常を過ごす。その間に光談社へ応募した小説が「文芸光談」に載ることになって、美沙と喜び合った。歩夢の美沙を好きな気持ちは変わらない。
 最後の飲み会は、青葉城店の忘年会だった。そのときは、石原さんは歩夢の向かいに座った。歩夢はいつもより多く石原さんと話が出来た。歩夢の東京時代のことを話すと、うんうんと先を促すように聞いてくれる。時には驚いた表情を、時には悲しそうな表情をまた素敵な笑顔を見せてくれた。このとき歩夢は石原さんを美しいと思った。

 新年会がおひらきになった。気の合うグループでかたまって、わーわー言っている。二次会の相談をしているようだ。
「あゆむ、次行くぞ!」
 高橋店長が上機嫌で言ってくる。
「いや、ぼくは……」断ろうとすると、
「若者よ、そう言わない! ほら、みんなもどっかへ行くんだ」と、ざわざわしている人たちに目を遣った。「青葉城店だろ。いっしーも行くし、彼女は楽しいぞ」
 石原さんも? え、二次会に行くんだ。
「ええ、石原さんは楽しい人ですよね」
 それじゃ行こうかな、と高橋店長を見た。
「そう来なくっちゃ」と言って、今度は天童さんに声をかけている。「天童ちゃんもオーケーだよな」
 歩夢たちのグループは十二三人。高橋店長の行きつけのスナックに行った。若い人は歩夢と天童さんだけだ。歩夢は壁側のソファーに座らされた。隣には天童さんがいる。石原さんはホール側に置かれた丸椅子に座った。じっとはしていない。カウンターから飲み物を運んだり、水割りを作ったり動いている。その度に短い会話を交わして笑顔を見せている。歩夢にも一言二言声をかけたが、ほとんど他の人たちとの会話に入っている。あの素敵な笑顔を誰にでもくれている。それを歩夢は自分にもっと欲しいと思った。
 三次会のカラオケにもついて行った。そこでも石原さんは時々声をかけてくれた。が、石原さんは高橋店長の隣の席から動かなかった。楽しそうに笑っていた。
 この日、二次会も三次会も歩夢は楽しめなかった。石原さんが居たにもかかわらず。
 カラオケを勧められたが、唄ったことがない、と断った。人の歌を聴きながらビールを飲むだけだった。
 かなり酔って遅い時間に帰った。美沙が起きて、迎えた。介抱してくれる美沙を強引に求めた。やるせない気持ちが欲情にかわっていた。違う、石原さんへの気持ちが、だ。
 ――もしかしたら、石原さんの代りを、美沙に求めていたの(・・・)か。
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