第61話  7月末  樹  (改

文字数 1,595文字

放課後、樹は大体書道教室にいる。
ここは自分の教室ではないのだが、やはりロケーションがいいし、担任を持っていない樹には、教室が無かったから、丁度いい感じに使わせてもらっていた。
と言うか、勝手に自分の荷物を持ち込んでいた。

放課後、ここで夕日を眺めながら、仕事をする。
静かだから誰にも邪魔をされない。
コーヒーを飲みながら。
時には音楽など流して。

ここにいると気持ちが落ち着く。
まるで自分の古巣の様な。
ここから離れたくは無かった。
本当は離れた方が良いのだろうけれど・・・。
でも、この学校、居心地もいいし。
書道部が廃部になったら考えようと思っていた。


また『煌香展』がやって来る。展示作品の選出も済んだ。
来年は横田先生に頼んで自分の作品も出してもらおうかなどと厚かましい事も目論んでいる。それも特別枠で。
居酒屋で接待をして、相談を持ち掛ける。
生徒からのブーイングが凄いだろうなと思う。


ここから見る夕焼けが好きだ。
夕焼けとセットで思い出す彼の姿も。
だが、残念ながら、今日は雨だった。
煙るように降る雨。まあ、それもしっとりとしていいなと思う。


雨に煙る校庭を眺めながら物思いに耽る。
「朱華さんに似ていて、若くてぴちぴちしていて明るくて優しくて聡明だったら、もう最強この上無しでしょうよ。」
樹は呟いた。
いつの間にか修飾語が増えていた。

お礼に行くと言っていながら、ぐずぐずしている内に、もう2か月以上が過ぎてしまった。
5月の終わりには融と別居した。

「ソウルメイトなんて嫌だね」
そう言って笑った融の顔を思い出すと、胸が痛くなる。
でも、もう一緒に暮らすことは出来なかった。

樹はあれから手足も首すらも引っ込めて甲羅の中でじっとしているカメの様にして暮らしていた。お金が貰えなくなると困るので仕事にだけは行く。
帰って来ると甲羅の中でじっと考える。そして、それに飽きると動画を見る。
気持ちが落ち込んで、こんな状態ではとても由瑞に会う事は出来ないと思っていた。
由瑞はきっと恩知らずな奴だと思っているだろう。会いに行くと言っていたのに、行けていないのだから。きっと呆れているだろう・・・。
樹はそう思いながらも会いに行くことが出来なかった。


「新しい彼女と新しい道を歩いて行く」
そんな彼に会いに行く。
このグダグダな状態で。
それは無理だった。

半身は彼を追い掛けて行ってしまった。
それはいつか諦めて戻って来るのだろうか?
それともそれは泡となって溶けてしまうのだろうか。
まるで人魚姫みたいに。
そうだとしたら私はずっと半身を失ったままだ。


異界での事が頭を過る。
あの時の色々な場面が蘇って来る。
それはちょっとした隙間の時間にさえ自分の心を奪ってしまって、気が付くとそれにどっぷり浸っている自分がいる。
あの、由瑞の表情、熊を倒した後の。自分を見た表情。
赤い神橋のたもとでぽつりと流した涙。
「君はどうせ赤津から離れないのだから」
そう言った。



彼は「お礼を言いに行きます」と言った私を待っていてくれてるのだろうか?
あいつめ、一体いつになったら来るんだって思っていてくれているかな?
あの時、言った様に、心を決めて新しい人と付き合っているだろうか。
だから、私の事はもうどうでもいいと思っているだろうか。
そうであったとしてもお礼を言いに行かなくちゃならない。

「あの時、助けてくれて有難う御座いました」
そしてその後は?
何て言うの?
自分の正直な気持ちを伝えなくちゃ、一生後悔すると思った。
彼が新しい人と新しい道を進んでいたとしても。

「私はあなたの幸せを心から祈っています。あなたに出会えて本当に良かった。あなたとの事は一生の宝物になります」
泣かないで言えるだろうか。
そのセリフを思うだけで心が痛くなって、涙が浮かんで来る。


暫くぼーと外を眺めていたが、気持ちを取り直した。
兎に角、行かなくちゃ。
行って顔を見て話をしよう。
樹はそう決めるとカレンダーに赤丸を付けた。

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