第37話  異界  樹と由瑞 8

文字数 2,782文字

神橋のふもとにぽつんと樹が座っていた。
由瑞は安堵で崩れ落ちそうになる。
「助かった・・・」
そう呟いた。

樹の傍に歩き寄る。
樹は顔を上げた。
「樹さん・・・」
声を掛けた。
樹は泣き腫らした目で見上げた。
「これじゃ、渡れないね」
そう言ってまた川に視線を移した。
由瑞は樹の隣に座る。


「済まなかった。本当に。情けない姿を見せてしまって・・・俺は自分に酷くがっかりしたよ。自分がこんなしょうもない男だとは思わなかった。・・・君もがっかりした事だと思う。酷い言葉を言ってしまった。自分が恥ずかしくて仕方が無い。本当に悪かった。」
そう言って樹を見た。
樹は由瑞を見上げる。
そしてまた川に視線を戻す。

「・・目障りだって言った事?」
川を見たままそう言った。

由瑞は頷く。
「樹さん。俺を見て」
由瑞は言った。

「御免。・・本当に御免。目障りなんて思っていないよ。思ってなんかいない。・・・君に会って、いろんな感情が心の中で渦巻いて、自分でも抑えきれなかったんだ。・・・済まなかった」
由瑞は頭を下げた。


樹は黙って由瑞を見ていた。
また涙ぐむ。
それを拭うと言った。
「うん。分かった。分かったよ。有難う。そう言ってくれて。もう大丈夫だから。・・・仕方ないよ。だって本当の事だもの。私に関わらなければ、あなたはこんな場所に来ることも無くて、怪我をする事も無かった。・・・御免なさい。私こそ子供みたいな暴言を吐いて」
頭を下げた。


「とんでもない。・・・さっき君が言った事は正論だ。全くその通りだよ。卑怯者は俺なんだよ」
そう言った。

「君の肩に触ってもいいかい?」
由瑞は言った。
樹は頷く。
由瑞は樹の肩を抱き寄せた。


「俺はまだ君を愛しているんだろうな。忘れた積りでいたのだが、こうやって再会してみれば忘れていない事を実感する。新しい人と進んで行かなくちゃと思っても。そうするべきだと思っては、いても。
君は赤津の妻だと言うのに。・・・本当に諦めが悪い男だ。情けないよ」
樹は由瑞の顔を見詰める。
その肩に頭を預けた。
視線を川に戻す。


「私は暫く病んでしまって・・・あの後に。あなたに『さようなら』って手紙を送った、あの年の冬・・。式も延期したし、延期しても披露宴は出来なかったの。私、融君に申し訳が無かった」


「二年前の夏・・期限が近付いてきて・・・私は融君に「どちらも同じ位好きで選べない」と言ったの。でも、やっぱりあなたは私と会わなかったから遠くて、本心はどうなのかよく分からなくて、けれど、融君はとても近くて・・。あの時、どちらもリセットすべきだったと強く思ったわ。それが正しい事だったと。どちらの所にも行かないという選択をすべきだった。
行けなかったのだから・・。
でも私はあなたとの約束に縛られていて・・。馬鹿みたいにそれを守らなくちゃって考えていて・・。三か月って、そんな期限なんてどうでもいい事なのに・・・」

「私、あの時、あなたの所に行ったとしても、きっと融君を思い出して悩んだと思う。
同じ様に。融君の所にいながらあなたを忘れなかった様に」

「あなたと会って話せば良かった。ずっとそう思っていたの」

「8月に婚約をして、どんどん式は近付いて私は追い詰められてしまって、こんな状態じゃ、融君に申し訳が無くて・・・もう婚約を解消してもらおうと思っていた。
そんな時にあなたと出会って、あなたは恋人と一緒で・・・『もう目も合わせないで欲しい』と言われて・・」
樹は言葉を切って由瑞を見た。


「私、自分から『さようなら』って言ったくせに、何でこんな事をいつまでもぐずぐずと考えて、病気なんかになっているのかって恥ずかしかった。情けないって。融君は「大丈夫だから。ゆっくり治せばいい」って言ってくれた。
それでようやく5月に式だけ挙げたの。・・・私はあなたを忘れて融君と暮らすことを選んだわ。あなたの事も忘れられると思った。私は幸せだったの。彼と一緒で幸せだったよ。私、間違っていなかったって思った。・・・でも、あなたに対する罪悪感だけはずっと消えなかった」

由瑞は黙って聞いていた。


「けれど、今回、彼は私を独りにして、またこちら側に来ていたの。私、ショックだった。
『もう小夜子は関係の無い所から』って言われていたからそれを信じていたのに。・・・あの二年前の連休と同じ。私だけがぽつんと向こう側にいて、・・それも妻なのに・・・彼はまた、室生にいた時みたいに小夜子さんの側にいる」

「それも来なくていいって言われていたみたいなのに・・」
樹は苦笑した。
「もう、呆れちゃうよ」

「私は同じ事を繰り返して、また同じように泣いた。彼が嘘つきに思えた。で、頭に来て、それを暴いてやろうと思ってここへ来たら、こんな事になってしまった。そこへあなたを巻き込んでしまったのよ。・・・本当に御免なさい」

「融君は私をすごく愛してくれている。それは分かる。小夜子さんよりも誰よりも私を好きだって。でも優先順位は違う。彼は一番にここを大切にしている。・・・でも、今回、その理由が分かったわ。彼は特別な人なのね」
樹は由瑞を見上げる。
「そしてあなたも。・・だからきっと小夜子さんも、蘇芳さんも、史有君も・・。だから私はいつも仲間外れだったのね」
由瑞は樹を見詰める。


「俺は、怖かったんだ。君が俺の本当の姿を知って怖がるのが・・・きっと怖がってしまうだろうって。だから・・ああ・・そうなんだ。その通りだよ。俺は赤津の気持ちがよく分かる。
赤津も怖くて言えなかったんだ。・・・俺達は特別なんだ。俺の力と身体能力は常人を大きく超えている。その力は次第に減衰する。子供の頃はもっと力があった。あんな熊なんて、あっという間に倒していた」

樹は由瑞の顔を見る。
「子供の頃も熊と戦ったの?」
「そう。・・・子供の時、俺は狩りをしたんだ。・・・大満月の夜に。」
樹は黙って由瑞の顔を見ていた。
そして「そうなのね」と返した。


樹は由瑞が自分と会わなかった理由が分かった様に思えた。
由瑞は真っ直ぐに自分を見ていた。深い傷を秘めた瞳。黒くて深い。
由瑞の苦悩の深さを知ったと思った。

じっと由瑞を見詰めるとその首にそっと腕を回して頬を寄せた。
「あなたもとても悩んだのね」と言った。
「いえ、悩んでくれたのね」

由瑞は目を閉じた。その瞼から涙が一筋流れた。
その涙を掌で拭った。


「樹さん。秘密なんだ。これは。赤津も、俺も。命に関わる程の」
由瑞は言った。
樹は頷いた。
「誰にも言わない。そんな事。大体、ここから出る事も出来ないかも知れないのに・・」
由瑞は頷いた。
「絶対に、だ」
樹は繰り返した。
「絶対に」


二人は寄り添って橋を眺める。
「一体誰が橋を壊したのかしら?本当に迷惑な人ね」
「全く・・」由瑞は返した。


樹は立ち上がった。
「由瑞さん。実はもう一本道が有る筈なの。あの赤津の家の裏手に。それを探して見ましょう」
由瑞も立ち上がった。
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