第62話  7月 融 1

文字数 1,673文字

「・・・じゃあ、君は、あの場所でそう言ったんだな。樹に。『譲り受けるって』そして樹はそれを了解したのだな?」
融は電話口で言った。
「彼女は『うん』とは言っていたのですが・・・半分眠っていて、寝惚けていたかも知れない」
由瑞は苦笑した。

「寝ぼけていたって?」
融は呆れた。
「そんな大事な場面で、樹は眠っていたの?」
「そう。次に目を覚ましたらちゃんと聞こうと思ったけれど、川に飛び込んでそれどころじゃ無くなって・・・」
由瑞はそう言った。
「君の話と言うのはそれだったんだな」
「そうです。覚えてくれていたんですね」
「そんな事だろうと思ってはいたが・・・。何でもっと早く言わなかったんだ?余計な心配をして損をしたよ。言って置くけれど、樹はそれを全く覚えていないと思う」
「やっぱりそうですか・・・。樹さんに会ってちゃんと確認してからって思ったので、来るのを待っていたんですよ」
由瑞は言った。
「連絡も無いんだな?」
「そうです」
「もう随分経つじゃないか・・・」
「まあ・・・そうですね・・・」

 7月の最終週。
日曜日。
融から由瑞に電話が入った。

「佐伯の所に行ったら、佐伯から俺の所に電話を入れる様に言ってくれ。彼と話をしないと離婚届にサインしないからな」
樹にそう言って置いたが、いつまで経っても電話が無いので、融は自分から由瑞に電話を入れた。

「史有に聞いて知っているかと思うけれど、樹とは別居しているんだ」
融は言った。

由瑞は「電話では無くてあなたに会って話がしたい」と言った。
融は「来なくていい。君には会いたくない」と返した。
「離婚の話でごちゃごちゃしていたから・・・樹も落ち着いてからと思っていたのだろうが・・」
融は暫し考える。
「赤津さん?」

「佐伯さん。ひとつ確認したいのだけれど、君がお付き合いしている人はどうなったの?」
融は尋ねた。
由瑞は答えた。
「ああ・・。やっぱりそれですか。勿論、話はすぐに無くなりましたよ。見合いです。・・・そもそも彼女とは二度しか会っていない。樹さんは誤解をしているのです。でも、それは私が悪いのです。・・・あの、実は」
由瑞はそう言った。
融はそれを遮る。
「いや、いいよ。それならそれで。大体の話は樹から聞いている。樹が誤解をしているなら、君がそれを正しに行けばいいだけの話だ」
由瑞は暫し黙る。
融の言葉が温かく体中に沁み込んだ。

「もしかすると夏を越すかもしれない。まあ、俺は別にそれでもいいんだけれど・・・」
融は言った。
「赤津さん。有難う御座います。・・・じゃあ、彼女が了承してくれたら、あなたは樹さんを私に譲ってくれるのですね?」
融も暫し黙る。

「嫌だ」
「はい?」
「嫌に決まっている。君になんかに譲りたくは無い。当然だ。人の家庭を壊して置いて・・・」
融は言った。
「申し訳ありません。本当に申し訳が無いと思っている。でも、私も自分の気持ちを誤魔化す事が出来なくなってしまったのです。彼女に再会して。そして生死を共にして」
由瑞は言った。

融はため息を付いた。
「その切っ掛けを作ったのは俺だからな・・。そして君は命懸けで樹を助けてくれたのだから・・・。君にはとても感謝している。だが、それとこれとは話が別だ」
融は言った。
由瑞は黙って聞いている。

「でも、樹がそう言うなら、もう仕方が無いと思っている」
融は言った。
「赤津さん。有難う御座います。心から感謝します。・・・でも、もう少し樹さんを待ちます。彼女は来ると言ったので。それでも来ない様なら行ってみますよ」
由瑞は言った。
「じゃあ、樹と話が付いたらその時点で電話をください」
融はそう言った。

由瑞は最後に言った。
「有難う御座います。赤津さん。私は樹さんを大切にします。・・・あなた以上に大切にします」
その言葉にかちんと来る。
「はあ?よく言えるな。ぬけぬけと・・・・。知らないくせに!俺がどれだけ樹を大切にしたかなんて・・・調子に乗るな!だから君と話すのは嫌なんだ。君とは二度と話をしたくない!」
そう言って「ぶちっ」と通話を切った。
由瑞は突然切れた電話を持って、「じゃあ、電話はどうするんだよ・・」と思った。



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