第9話  樹

文字数 3,232文字

樹は仕事を終えて帰って来た。
明日から連休。

融は昨日の内に出掛けた。
今日は休暇を取ったらしい。
三日程と言っていたけれど、どうなるか分からない。
折角の連休も前半は潰れてしまうかも。と樹は思う。

冷蔵庫からビールを取り出す。
それを飲みながらコンビニ弁当を食べた。

融君も由瑞さんも珠衣かあ・・・。 


「もう、小夜子は関係の無い所から」
「小夜子の事は史有に任せる」
あの時、融はそうは言ったが、そんな訳にも行かない。実家なのだから。

小夜子に対する嫉妬は消えた。樹にとって小夜子はいい友達だ。
しかし、小夜子と融の親密さは時々樹を寂しくさせた。
前回もそうだ。三人は奥の院へ行ってしまって、自分はお婆ちゃんと神社の掃除。
伊刀君がいたからいいけれど・・・。
何で?
樹は小さくため息を付く。
それは嫉妬とは違う。自分だけが外れてしまうと言う単純な寂しさだった。


融が一番好きなのは自分だと分かっている。
すごく愛してくれているって。一番に愛していると。
けれど優先順位では珠衣の下になる。
愛と優先順位は別だと樹は最近悟った。
そう思って世の中を見れば幾らでも似た様な事例は転がっている。
そこさえクリアできれば、何とかなる。
愛しているのは私。大切なのは珠衣。
割り切るしかない。
子供が出来れば、彼も私も子供が一番になるだろう。
私だって寂しさなんか忘れてしまう。
そう思った。



樹は今朝方の夢を思い出した。
悲しい夢だった。
先日、由瑞の話が出たから、そんな夢を見たのだろうか。

由瑞が自分に言った「もう目も合わせないで欲しい」と言う言葉。
豪華なカップル。
私には眩しくて。
去って行く彼を振り返る自分。
彼女の背中に回された優しい手を見詰めた。
夢の中の自分はその後、彼を追いかけていた。
「話があるの!」
そう言って夢中で走って追い掛けたけれど、彼は振り返らないで行ってしまった。

それを悲しいと思いながら、ある意味良かったと思っている自分がいた。
彼を一方的に傷付けたから、だから彼からお返しを貰ったほうが楽になる。
私を同じ位傷付けてくれればいいと。
自分が痛くなればそれだけ心は軽くなる。


今日に至るまでに幾つかあった分岐点。それを選択しなかった。
もしもそれを選んでいたら?
融と結婚をして一年が過ぎようとしている。
それでもまだそんな事を考える時がある。

室生から逃げる様にして帰って来た東京。
由瑞と過ごした二日間。
彼に『さようなら』の手紙を送った事。
そして融とやり直しをする事に決めた。
あのハイキングに行った時に決めた。それなのに・・・


由瑞を忘れる事は出来なかった。
彼の事を思い出にする事も出来なかった。
秋が深まるに連れて、心がざわつき始めた。
ざわざわ、ざわざわ。
まるで台風の前みたいに。
本当はずっと心の中にあったのだ。
このまま進んでいいのだろうかと。


そんな気持ちを押し込めて蓋をした。
もう融とやり直すことを選んだのだから。
「大丈夫。私は間違っていない。私達は幸せになれる」
融の笑顔を見ると強くそう思った。


 どうして融との結婚までにそんなに時間が掛かってしまったのか。
8月に婚約をして式は次の年の5月。
それは樹が心を病んでしまったからだった。
確かに融は忙しかった。静岡には月に2度は出掛けていたし、行けば3,4日は泊まって来る。それに11月後半から年末まで融は中国に出張だったのだ。
式は年明けの2月と決めていた。

融が中国に行ってしまった、あの一か月は散々だった。
結婚式はどんどん近付く。樹は焦った。
どうしていいか分らなくなった。
どんどんビールの量が増えて行った。

秘書はいつも自分を責めた。
融と結婚する事に付いても、結婚しない事に付いてもどっちでも責めた。

「このまま彼と結婚していいの?由瑞さんの事を忘れないくせに。・・・・それってどうなの?あなたはそれでこの後上手く行くと思っているの?それの方が不実じゃないの?
それははっきり言って裏切りだね。融さんを裏切っているよ」

「もう、ここまで来て結婚をしないの?婚約して置いて?もう上司にも報告しているじゃないの?彼に恥をかかせるの?・・・いや、どうなの?それ?裏切りじゃん。だったらどうして、あのハイキングに行った時に、彼とやり直すなんて言ったの?あなたが決めたんだよ?今更結婚しないなんて言ったら、彼はもっと傷付く。あんないい人を、あなたはまた?また、傷付けるの?」
そうやってぐるぐる、ぐるぐる、自分を責めた。


睡眠が浅くなる。
心が落ち着かない。
全く眠れない日もある。
昼寝をしようとするが、10分も横になれない。
身体がざわついて眠れない。神経がチクチクと体中を刺している感じ。
不安ばかりが心を苛む。考えてばかりで体が動かない。
落ち着いて集中することが難しくなった。
底辺まで落ち込んでしまう事もあれば、イライラと心が泡立ちじっとしていられなくなったりする。何もかもが中途半端で、やる事ばかりが頭にあるけれど、それを上手く処理することが出来なくなった。
仕事に支障が出て来た。
眠くてぼんやりとする。でも眠れない。
ぐっすりと眠りたい。何もかも忘れて。

中国にいる融とズームで会話した。
ズームの為に化粧した。
「何だか、疲れていないか?」
融は言ったが、「仕事が忙しくて」と胡麻化した。遠く離れた異国で仕事をしている彼に心配をかける訳には行かない。

心療内科に行って薬を処方してもらった。
「アルコールは止めて薬を飲みなさい」と言われた。
樹はそうすることにした。

迷っている樹の背中を融との結婚へと強く押し出したのは、クリスマスの頃に出逢った由瑞の言葉だった。
「もう目も合わせないで欲しい」
冷たい目でそう言われた。それは至極当然の事と思えた。
あんなに優しい人を傷付けたのだから。
ゴージャスなカップル。お似合いだった。自分なんかよりもずっと。

自分から「さようなら」と言って置いて、何を今更と、病んでしまった自分が恥ずかしくなった。
ぐずぐずと情けない。いつまでも。
由瑞に頬を張られた感じがした。
彼に冷たい言葉を掛けられて良かった。これでようやく忘れられる。

大連から帰って来た融には「マリッジブルーみたいなもの」とだけ告げた。
詳しい理由は言えなかった。

それでも一度病んでしまった心は中々元には戻らなかった。
予約していた式場をキャンセルした。招待状はまだ出していなかった。
友人達に説明した。
「ちょっと、病んでしまって・・・」
彼女達はそれ以上は聞かなかった。
融は「大丈夫だから、何も心配はいらない。ゆっくり治せばいい」と言ってくれた。
そんな彼がとても有難くて、そして、とても申し訳が無かった。
思い出すと自分が嫌になる。

結婚式の予定日を過ぎたら、心が軽くなった。すごく軽くなった。

融と同棲を始めた。いくつも物件を見て回って、賃貸マンションを契約した。
遠くに山並みが見える。目の前には公園が見えた。公園の中に小さな森がある。
お稲荷さんがあるのだ。
いつかお金を貯めて一戸建てを購入しようと二人で決めた。


5月に挙式。
披露宴は無理だった。
融は面倒だから寧ろ無くていいと言った。
でも、会社の上司とか本当は呼ばなくちゃならなかったんだろうな・・・。
そう思った。

不安と痛みは融との日々を重ねるに連れて薄れて行った。融が癒してくれた。
彼は相変わらず穏やかで優しくてそして素敵だった。
自分は融を愛している。日々の中でそう実感する。
由瑞の姿を思い出しても、由瑞の笑顔を思い出しても、胸を切る様な痛みを感じる事は無くなって行った。時間が過ぎるとはこういう事なのだろうと思う。
あの頃の事を思うと、今でも痛みが心を過る。それは彼を傷付けたという痛み。そして由瑞の今を思う。彼も早く幸せになって欲しいと願う。


学校のロッカーの中にはストックと『梅花』の色紙が入っている。捨てなくちゃと思いながらどうしても捨てられなかった。
「佐伯がとうとう結婚をした」
そんな話を融から聞いたら、その時は捨てようと思う。
彼が幸せになったら、そうしたら私もそれを捨てられる。

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