第70話  その2  樹と由瑞 

文字数 3,673文字

 
 爽やかな秋空が広がる10月の日曜日。
 由瑞と樹は樹の実家に来ていた。
 両親に由瑞を紹介するためである。

 父は樹の離婚を知って驚いた。そしてその理由が他の男にあるという事を聞いて更に驚いた。我が娘ながらとんでもない奴だと思った。
 あんな優しくてハイスペックな旦那と別れるなんて、一体何を考えているんだと怒りが湧いて来た。それもまだ結婚して一年しか過ぎていないのに。
 樹に対して腹が立つと同時に融に対しての申し訳無さで胸が一杯になった。
本当に馬鹿な娘だと思った。
 妻の高子は「流石にあなたと佐和さんの娘だけの事はあるわね」と笑った。

 当日、樹と一緒にやってきた由瑞を見て二人は驚いた。唖然と言っても過言ではない。
 父は改めて我が娘をまじまじと眺めて首を傾げたのであった。


 樹と由瑞は川の土手道を歩く。
「お父さんの打ったお蕎麦、美味しかったでしょう?」
 樹は言った。
「美味しかったと思うよ。でも、味なんか分からなかった。緊張してしまって、何を口にしたかもあまり覚えていない」
 由瑞は返した。
 樹は笑った。
「そんな風に見えなかったよ。落ち着いていて、上品な好青年に見えたよ」
「お義母さんが疑惑の眼差しで見ていた」
 由瑞は笑った。
「あははは。その表現は好意的過ぎるわね。義母は私が幸せなのが気に入らないのよ」
 樹も笑って答えた。


 由瑞は立ち止まって川を眺めると言った。
「君が昔言っていたのはこの川の事だね。小さい君はこの川で遊んでこの土手をお婆ちゃんと手を繋いで歩いた。そして成長してからは一人で何度もここを歩いた。時には自転車で走ったりもしたんだ」
 樹は川の上流を指し示す。
「川遊びの場所はもう少し上流なのよ。・・・でも、有難う。覚えていてくれたのね。あの、室生であなたが背負ってくれて、その時に話をしたのよね。
 そうなの。ここは春になると桜が咲いてとても綺麗なのよ。川の岸には菜の花が咲いて、それがずっと続いているの。・・・・ここが私の原風景なのよ」
 由瑞は頷いた。
 二人は寄り添って歩く。

「赤津もここを歩いたのだろう?こんな風に腕を組んで」
 由瑞はそう言って樹の顔を覗き込む。
「勿論。融君も陸も歩いたよ」
 樹は答える。

「融君の事は今でも大好きだよ。でもちょっとあなたへの好きとは違う。融君はまるで私のソウルメイトみたいに思える。・・・融君は私を愛して守ってくれた。陸が亡くなってからグダグダだった私を助けてくれて、私と同じ場所に踏み止まってくれたの。・・・・都会に来て、孤独で誰とも繋がれない私を繋いでくれた。だから本当に融君には申し訳が無いと思っています。彼の事は尊敬しているし、とても大切な人だよ」
 由瑞は笑って言った。
「その言葉には嫉妬するな。じゃあ俺はどうなの?」
「って、今更聞く?」
「何度でも聞きたい」
樹は首を傾げる。
「どうしても?」
「どうしても」

「そうね・・・。融君じゃ駄目だった。融君は私を置いて行くから。融君は私の手を離すの。私が知らない内に。そっと離して行ってしまうの。そんなのは普段は忘れている。でもずっと忘れたままじゃいられないの。どこかで気が付いてしまうの。私、幾ら愛されても心のどこかではいつも寂しがっていたのだと思う。だって、みんな私を置いて行ったから。お母さんもお祖母ちゃんも陸も。でも、あなたは私を置いて行かない。だって、私の事を足手纏いだと言いながらも、ずっと守ってくれたもの。自分も死ぬかもしれないのに、一緒にいてくれたもの。私、凄く嬉しかった。だから、あなたは私の全てです。あなたが何者であっても私はあなたを愛しているの。あなたは私だけの人なの。私はあなたといると満たされると感じる。私は常にあなたと伴にある。いつでも。いつまでも」
樹はそう言って由瑞を見上げた。

由瑞は樹を見て言った。
「有難う。嬉しいよ。君はなかなか才能があるな。ちょっと驚いたよ。・・・でも、同じ立場になれば赤津だって同じことをしたよ。赤津だって君を見捨てたりはしないよ。絶対に」
「うん。分かっている」
樹は微笑んだ。
「でも、私はあなたと一緒にいる」
「何で?」
「融君は大丈夫。だってしなやかで柔らかくて明るくて誰にも好かれるから。温かい人だもの。だから私で無くても大丈夫」
「じゃあ、俺は?」
「あなたはね。難しいの。だからきっと私で無ければ駄目なのだと思うの。だって、あなたと過ごしたあの二日間からずっと私を想ってくれたのだから。それに私の寂しさを埋めてくれるのはきっとあなたしかいないって私も感じるの。だってあなたの体はとても温かくて、私、あんな場所にいても安心してぐっすりと眠ったよ。あなたがいれば私は幸せだよ」
樹はそう言うと笑った。
「あなたが新しい彼女を選ばないでくれて本当に良かった」
そう言って由瑞の腕を取る。

「あなたは今回緊張したって言っていたけれど、私だって前回、すごく怖かったのだから」
 樹は言った。
「だって、ウチの両親の事は既に知っているじゃないか」
「そう言う問題じゃ無いよね。全て知っているのだから。何もかも。私、もう汗がだらだらで服が汗まみれ。お義母さんの目が怖くて。私、どこかに隠れたい位だった」
二人は声を出して笑った。

 樹はその場面を思い出す。

「何もかも知って、それでも樹さんは由瑞を選んだのね」
 雪乃は言った。
「はい」
 樹は答えた。
「何があっても由瑞と添い遂げてくれるのね?」
「はい」
 雪乃はじっと樹を見詰めた。
 樹は必死で雪乃の顔を見る。
「赤津さんと同じに考えていたら、ちょっとそれは」
雪乃は言い掛けた。
 由瑞は遮った。
「母さん。いい加減にしてくれ。どうしてそんなに脅かすんだ。信じられない。壊したいの?俺達の事を。本当に酷い親だな。前にちゃんと説明をしただろう。もういい。話す必要なんか無い。樹さん。帰ろう」
 そう言って立ち上がった。
「私はあなたの幸せを一番に願っているのよ。だから本人から直接聞きたいのよ」
 雪乃は由瑞を見上げる。
「『はい』って言ったじゃないか」
由瑞は返す。
「まあまあ。二人とも落ち着いて。落ち着いて」
 健三が宥める。
「だ、大丈夫です。」
 樹は言った。

 身体が震えていた。涙が頬を伝う。それでも必死で笑おうとして顔が歪む。由瑞はそれを痛々しく感じた。
「大丈夫です。絶対に大丈夫だから。信じてください。私、赤津さんじゃなくて由瑞さんと一緒に居たいと思ったんです。私も由瑞さんも遠千根の池で何度も死ぬ思いをしたんです。私、由瑞さんがいなかったら、とっくに死んでいたのです」
「どうして自分がこんな訳の分からない場所で死ぬのか理解できなくて、誰にも何も伝える事も出来ずにただ無力に死んでいた。虫けらみたいに。由瑞さんの本当の気持ちも赤津さんの気持ちも知らないで死んでいた。それで終わってしまった人生だった。大切な事を何ひとつ知らないで」
「だから大丈夫です。絶対に大丈夫です。全て分かっています。由瑞さんに命を懸ける程の事だってちゃんと聞いています。その上で由瑞さんと一緒にいたいと思ったのです」
雪乃は樹を見詰めた。
「信じてください」
樹は言った。

 雪乃はじっと樹を見ていたが、ふっと笑った。
「あなたの事を信じる事にします・・・・樹さん。有難う。由瑞の所に来てくれて。由瑞を大切にしてあげてください。由瑞を末永く宜しくお願いしますね」
雪乃はそう言って頭を下げた。
 樹は「不束者ですが、こちらこそ宜しくお願い致します」と言って深々と頭を下げた。
 肩が震えていた。由瑞はその肩に手を置いて雪乃を睨んだ。
「彼女を信用しないのは俺を信用しないのと同じだ。二度と泣かすな」
 雪乃は目に笑みを含ませて満足そうに由瑞と樹を眺めた。


「もう私、殺されるかと思ったよ。お義母さんに」
 樹は言った。
「あれはなかなか感動的だったよ。録音して置けば良かったな」
 樹は顔を顰める。
「嫌な事を言うわね。こっちは必死なのに」
 由瑞は笑う。

 由瑞は樹の背中に手を回して言った。
「母は子供達を溺愛しているんだ。本当に愛情深い人だよ。俺達は母と父とそれから伯母と伯父と朱華に育てて貰った。みんなに愛してもらって手を借りて育って来たんだ。恵まれているのだろうな。色々な人に守られて来て・・・・。それは有難いと思うよ。でも、関係ないから。別に。親の同意なんて。今更。どちらにしろ単なる挨拶だから。俺は両親が何て言おうが関係ない。大切なのは俺と君の気持ちだけだ。」
「だって、私、お義母さんに嫌われたら室生に行けないもの」
樹は返す。
「室生に行きたいの?」
「うん。いい所だから」
樹は答えた。

 由瑞は立ち止まり樹を見る。
 その頬に手を伸ばし唇に触れた。
 樹は目を閉じる。

 唇を離すと由瑞は言った。
「ちょっと、そこに立ってみて。写真を撮るから」
 川をバックに樹の写真を撮る。
 川の向こうには青い山並みが見える。
 爽やかに澄んだ空気。
 緑濃い木々と青い空に浮かんだ鱗雲。
 樹の花模様のスカートがふわりと揺れた。
 微笑んだ樹を見て由瑞はとても綺麗だと思った。







 



 






 













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