第29.5話  樹と由瑞

文字数 1,987文字

「どうやったの?」
由瑞は聞いた。
びくりとして振り向いた樹の顔を見詰めた。

泣き腫らした顔。
ああ・・・今度は俺が泣かせた。こんなに泣かせてしまった。
そう思った。
酷く胸が痛んだ。


樹はシャツの裾で汚れた顔をごしごしと拭いた。
「へへへ・・・何でもない。気にしないで。この黒い手が自分みたいだなって思って・・・・可哀想になってしまったの。それでそう言ったら、取れた」
樹は言った。
時々、ぶるぶると震える。
由瑞は思わず樹の体に手を伸ばした。
「寒いの?・・・御免。俺、酷い事を言って・・・・冷たい態度を取って・・・君の言葉が・・」
樹はそんな由瑞の手をするりと逃れた。


「あたしにだって神経は有るんだよ!・・・目障りとか・・・信じられない。・・・そんな事を言うんなら、助けなければいいじゃん!私は鈍いからそんな事を言われても平気だと思っているのでしょう!」
樹は泣き叫んだ。
由瑞は唖然とした。

「あなただって、『俺の所に来るな』って言ったでしょう?」
樹は涙をぼろぼろとこぼしながらそう言った。

『来たらもうそれで赤津を諦めた事になるって』。それって『君と会って話す必要なんか無い』って言っているのと一緒だよ。・・・会わないって、二か月も三ヵ月も会わないって・・それで『よりを戻すならそれでいい』って。あなたが言ったんだよ?忘れたの?・・・あの時、どんなに私が悩んだか、苦しんだか、あなたにも分からない。」

「俺の所に来ればいいって、俺は言った」
由瑞は言った。
「ラインでね。電話でね。顔も見えない。雰囲気も分からない。本当はどう思っているのか分からない・・・口で言っているだけで、本当は迷惑と思っているのかも知れない」
由瑞は唖然とした。
「君は何を言っているんだ。俺をそんな風に思って・・」

 どうしてそんな風に。
そう思いながらも、樹は自分の心の迷いに気が付いていたのだろうかと思った。

「それでも私、それに慰められて、それに縋り付いた」
樹は赤く腫れた目で由瑞を見詰めた。
「寂しい時は何度もあなたのラインを見直した」
「何度もあなたの所に行こうと思ったよ」
「あなたは私に会いたくなかったの。会いたくないくせに『お早う』ってラインを送って来る。
会わないくせに『俺の所に来ればいい』って言うの。そんなのどうやって信じればいいのか分からない」

由瑞は目を逸らせた。

自分に赤津と張り合う自信が無かったと。張り合ってもし勝てたとしても、その後の事を考えると・・・・だから、自分は赤津に譲ったのだ。譲った積りなのに、傷付いていた。
卑怯なのは俺だ。彼女を責める事は出来ない。それなのに俺は・・。
由瑞の心は大きく揺れた。駄目だ。落ち着かないと。冷静にならないと。
何でこんなに揺さぶられる?もう二年も前の事なのに。
由瑞は自分を抑える。


「何で会わないって言ったのか、分からなかった。会いたかった。すごく会いたかった。でもあなたは会わないって・・・。悩んで・・それでも会いに行けなくて・・・」

「でも、君は『さようなら』って手紙を寄越した。『声が聴きたい』なんて言ったその後で」
由瑞は言い返す。
言ってしまって、その自分の言葉に絶望した。

樹は目を見開く。そしてがっくりと肩を落とした。

「御免なさい。・・・私はどうしていいか分からなかったの・・‥私、ずっと迷っていた。あなたの言っている事は『俺は待っているよ。でも全ては君が決めるんだ』って言っているのと同じで・・・。私は決める事が出来なくて・・・御免。・・私、昔から自分で決める事がとても苦手で・・いつも誰かの顔色を窺って・・・・・私はずっとあなたと会って話をしたいと思っていた。ずっと・・・ああ。でも御免なさい。・・・御免なさい。その通りです。私が悪いの。・・・ああ、今更何を言っているのか・・もう終わってしまった事を・・・確かにうざいよね。目障りだよ。その通り」

樹は涙を拭って立ち上がった。
「もう、足枷は取れたから。あなたに助けてもらう事もない。私は大丈夫。あなたはもう私を助けなくてもいい。でも、私はあなたを助ける。あなたをここから助ける。あなただけは絶対にここから助け出す。
もしも、ここから出る事が出来たら、もうあなたの目の届かない所に行く。目障りじゃない遠い場所へ。・・・だからここで休んでいて。私、道を探して来る」
そう言って樹は走り出した。
「どこへ行くの!危険だ!」
由瑞は言った。
「うるさい!」
樹は返した。
由瑞はカチンと来る。
「何があっても知らないからな!行くのなら、もう助けないからな!」
大声で言う。


樹は立ち止まると後ろを振り向いて怒鳴った。
「どうせ私は馬鹿だよ。学習能力が無いよ。同じことを繰り返して・・いいよ。もう赤津なんか。あんな嘘つき野郎。知らねえよ。そんで、あんたも知らねえよ!あんたなんか大嫌いだ!」
泣き顔でそう怒鳴ると、樹はくるりと向きを変えて森の中を走り去った。
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