第68話 駅
文字数 2,339文字
8月3日 (土)
夏真っ盛り。
午前中だと言うのに南の空には白い入道雲が見えていた。
まるでポスターにある様な定番の夏空だと思った。
由瑞は新大阪の駅に来ていた。
11時30分。
のぞみ。
新幹線の改札口。
柱に寄り掛かって何度も時計を確認する。
数日前に樹から連絡があった。
「遅くなってしまったけれど、お伺いしたいと思います」
由瑞は嬉しかった。やっと来たかと思った。
「絶対に離れないって言ったじゃないか。君はあの場所で」
そうも言ってやりたかったが、勿論言わなかった。
そんな事を言ったら、彼女はビビッて来るのを取り止めてしまうかも知れない。
彼女は小心者だから。
「良かった。いつ来るかと思ってずっと待っていました」
穏便にそう返して置いた。
彼女はちょっと口籠りながら
「もっと早くお伺いしようと思っていたのですが、色々とあって、気持ちが落ち着かなくて。御免なさいね。でもお伺いすることに決めました」と言った。
「あなたにお聞きしたい事もあるの」
「丁度良かった。俺も君に聞きたいことがあったんだ」
そう返した。
「あら、そうなの?じゃあその時に」
彼女はそう言った。
柱に寄り掛かりスマホを見ている由瑞を通り過ぎる女性達がちらちらと見ている。
ちょっと離れた場所でこそこそと話をする二人組。
由瑞に声を掛けてみようかと相談をしている。
お茶は無理やろ。だったらあんた道でも聞いてなどと。
「スーパーイケメンやな」
「クールビューティーや。なんか、こう、冷たい感じがせえへん?・・めっちゃプライド高そうや」
「あっさりと断りそうやな」
「どうせ彼女待ちやろ」
「どんな彼女か見てみたいわー」
「めっちゃイケてるかもな」
「まあまあ普通かも。美男美女なんて腹立ってしゃあ無いわ」
会話が由瑞の耳に届く。
由瑞は心の中でくすりと笑う。
異界で死ぬ思いをしたから、感覚が鋭敏になったらしい。
「めっちゃブスだったら笑えるわ」
思わず顔を上げた。
「怖っ!」
「やばっ!聞こえとった?」
・・・・
二人組はそそくさと去って行った。
史有が言っていた。
「伊刀さんが樹さんに会いたがっている。樹さんがそちらに行くのが決まったら教えて」
一応連絡を入れて「挨拶に来るだけだから、次回で」と言って置いた。
迷惑な犬だ。
でも、もしもの時に備えて由瑞は部屋を掃除して置いた。
壁の『逍遥遊』の文字を見上げ、机上のペーパーウェイトを確認して部屋を出て来た。
いや、実は「絶対に」と思っている。来てしまえばこちらのものだ。
由瑞は樹の自我の弱さを知っていた。それなのに共感能力だけは無駄に高いという事も。
簡単に言えば周囲に影響され易く、危うい人だ。
だが、それだけでは無いという事も知った。
あの場所で俺に「大嫌いだ!」と言った。「うるさい!」とも。
命の恩人である俺に対して。
あれは衝撃的だった。
「あんたなんか知らねーよ」と。
助けてやった俺に対して。怪我までして。天敵である赤津の妻なのに。
赤津なんか「嘘つき野郎」って言われていた。
侮れないと思った。
今から食事をして、樹と話をする。
もうレストランも予約済みだ。
彼女の手を取ってあの時の言葉を繰り返す。
「やっぱり君は寝ていたのか」と言って。
その場面を思い描く。
「実は赤津とはもう話をしてあるんだ。赤津の許可は取ってあるんだ」
樹はどんな顔をするだろう。
由瑞は幸せな気持ちになる。
樹と一緒に過ごして、会話を交わし、時々からかって意外な反応を楽しむ。
彼女を観察するのはきっと楽しいだろう。
「おや、こんな所もあったのか」などと発見するのも「いとおかし」だな。
ああ、でも、それもこれも彼女が俺のプロポーズを受けてくれないと全てが絵に描いたモチになってしまう。
由瑞は一瞬暗くなる。
真っ暗になる。
だが、すぐに気持ちを取り直す。
いや、絶対に了承させる。
今更無しなんて有り得ない。
「君は俺の秘密を知った。だから君を放置する訳には行かない」
その通り。
それは十分な理由になる。
危なくて仕方が無い。
「君を助けるために俺は大怪我をしたんだ。そのオトシマエはどう付ける積りだ」
「君が『絶対に離れない』と言ったから新しい彼女をお断りしたんだ。今更そんな事を言われても困る。俺に対する損害は身体で払ってもらおう」
・・これはちょっと品格を疑われるな・・。
彼女の意見など聞かないでさっさと事を進める。
最後はそれだな。
「はい」と言うまで監禁してもいい。
由瑞は腕を組んで考える。
「いや、無理強いは良くない。俺を怖がって赤津の所に逃げてしまうかも知れない。・・・何とか彼女が自主的に・・」
赤津の所に帰られたら元も子も無い。
彼女が帰れない様に、赤津を早く再婚させた方がいい。そうだ。若くて綺麗な子を彼の所に送り込むと言うのはどうだろう。偶然を装って。そして彼を誘惑する。赤津の好みは分かっている。分かり過ぎる程分かっている。蘇芳に相談をしてみようか・・・。
由瑞は黒い策略を巡らす。
改札口の向こうから人々がやって来た。
小さなリュックを背負った樹の姿が見えた。
青いワンピース。白いカーディガンと白いサンダル。
手には麦藁帽子。
勿論スーツケースは持っていない。
樹は由瑞を見付けた。笑顔で手を振る。
由瑞も手を振り返した。
由瑞の頭から雑踏の音が消えた。雑念も。策略も。
全てのものに感謝したいと思った。
自分を取り巻く遍く全てのものに。
生まれて初めてそう思った。
自分がここにいる事を。
彼女がここにいる事を。
笑って自分に手を振ってくれる事を。
それが何事にも替え難い。
由瑞はちょっと天を仰ぐ。
雑踏の音が戻って来る。
そして樹の元に歩き出した。
了
夏真っ盛り。
午前中だと言うのに南の空には白い入道雲が見えていた。
まるでポスターにある様な定番の夏空だと思った。
由瑞は新大阪の駅に来ていた。
11時30分。
のぞみ。
新幹線の改札口。
柱に寄り掛かって何度も時計を確認する。
数日前に樹から連絡があった。
「遅くなってしまったけれど、お伺いしたいと思います」
由瑞は嬉しかった。やっと来たかと思った。
「絶対に離れないって言ったじゃないか。君はあの場所で」
そうも言ってやりたかったが、勿論言わなかった。
そんな事を言ったら、彼女はビビッて来るのを取り止めてしまうかも知れない。
彼女は小心者だから。
「良かった。いつ来るかと思ってずっと待っていました」
穏便にそう返して置いた。
彼女はちょっと口籠りながら
「もっと早くお伺いしようと思っていたのですが、色々とあって、気持ちが落ち着かなくて。御免なさいね。でもお伺いすることに決めました」と言った。
「あなたにお聞きしたい事もあるの」
「丁度良かった。俺も君に聞きたいことがあったんだ」
そう返した。
「あら、そうなの?じゃあその時に」
彼女はそう言った。
柱に寄り掛かりスマホを見ている由瑞を通り過ぎる女性達がちらちらと見ている。
ちょっと離れた場所でこそこそと話をする二人組。
由瑞に声を掛けてみようかと相談をしている。
お茶は無理やろ。だったらあんた道でも聞いてなどと。
「スーパーイケメンやな」
「クールビューティーや。なんか、こう、冷たい感じがせえへん?・・めっちゃプライド高そうや」
「あっさりと断りそうやな」
「どうせ彼女待ちやろ」
「どんな彼女か見てみたいわー」
「めっちゃイケてるかもな」
「まあまあ普通かも。美男美女なんて腹立ってしゃあ無いわ」
会話が由瑞の耳に届く。
由瑞は心の中でくすりと笑う。
異界で死ぬ思いをしたから、感覚が鋭敏になったらしい。
「めっちゃブスだったら笑えるわ」
思わず顔を上げた。
「怖っ!」
「やばっ!聞こえとった?」
・・・・
二人組はそそくさと去って行った。
史有が言っていた。
「伊刀さんが樹さんに会いたがっている。樹さんがそちらに行くのが決まったら教えて」
一応連絡を入れて「挨拶に来るだけだから、次回で」と言って置いた。
迷惑な犬だ。
でも、もしもの時に備えて由瑞は部屋を掃除して置いた。
壁の『逍遥遊』の文字を見上げ、机上のペーパーウェイトを確認して部屋を出て来た。
いや、実は「絶対に」と思っている。来てしまえばこちらのものだ。
由瑞は樹の自我の弱さを知っていた。それなのに共感能力だけは無駄に高いという事も。
簡単に言えば周囲に影響され易く、危うい人だ。
だが、それだけでは無いという事も知った。
あの場所で俺に「大嫌いだ!」と言った。「うるさい!」とも。
命の恩人である俺に対して。
あれは衝撃的だった。
「あんたなんか知らねーよ」と。
助けてやった俺に対して。怪我までして。天敵である赤津の妻なのに。
赤津なんか「嘘つき野郎」って言われていた。
侮れないと思った。
今から食事をして、樹と話をする。
もうレストランも予約済みだ。
彼女の手を取ってあの時の言葉を繰り返す。
「やっぱり君は寝ていたのか」と言って。
その場面を思い描く。
「実は赤津とはもう話をしてあるんだ。赤津の許可は取ってあるんだ」
樹はどんな顔をするだろう。
由瑞は幸せな気持ちになる。
樹と一緒に過ごして、会話を交わし、時々からかって意外な反応を楽しむ。
彼女を観察するのはきっと楽しいだろう。
「おや、こんな所もあったのか」などと発見するのも「いとおかし」だな。
ああ、でも、それもこれも彼女が俺のプロポーズを受けてくれないと全てが絵に描いたモチになってしまう。
由瑞は一瞬暗くなる。
真っ暗になる。
だが、すぐに気持ちを取り直す。
いや、絶対に了承させる。
今更無しなんて有り得ない。
「君は俺の秘密を知った。だから君を放置する訳には行かない」
その通り。
それは十分な理由になる。
危なくて仕方が無い。
「君を助けるために俺は大怪我をしたんだ。そのオトシマエはどう付ける積りだ」
「君が『絶対に離れない』と言ったから新しい彼女をお断りしたんだ。今更そんな事を言われても困る。俺に対する損害は身体で払ってもらおう」
・・これはちょっと品格を疑われるな・・。
彼女の意見など聞かないでさっさと事を進める。
最後はそれだな。
「はい」と言うまで監禁してもいい。
由瑞は腕を組んで考える。
「いや、無理強いは良くない。俺を怖がって赤津の所に逃げてしまうかも知れない。・・・何とか彼女が自主的に・・」
赤津の所に帰られたら元も子も無い。
彼女が帰れない様に、赤津を早く再婚させた方がいい。そうだ。若くて綺麗な子を彼の所に送り込むと言うのはどうだろう。偶然を装って。そして彼を誘惑する。赤津の好みは分かっている。分かり過ぎる程分かっている。蘇芳に相談をしてみようか・・・。
由瑞は黒い策略を巡らす。
改札口の向こうから人々がやって来た。
小さなリュックを背負った樹の姿が見えた。
青いワンピース。白いカーディガンと白いサンダル。
手には麦藁帽子。
勿論スーツケースは持っていない。
樹は由瑞を見付けた。笑顔で手を振る。
由瑞も手を振り返した。
由瑞の頭から雑踏の音が消えた。雑念も。策略も。
全てのものに感謝したいと思った。
自分を取り巻く遍く全てのものに。
生まれて初めてそう思った。
自分がここにいる事を。
彼女がここにいる事を。
笑って自分に手を振ってくれる事を。
それが何事にも替え難い。
由瑞はちょっと天を仰ぐ。
雑踏の音が戻って来る。
そして樹の元に歩き出した。
了