第41話  異界 樹と由瑞 9

文字数 1,877文字

小夜子の家裏へ戻る道は見付からなかった。
さわさわと揺れる羊歯に覆い隠されて道は見えない。暗い杉林の中の羊歯の海。時折、その下を何かが走るのだろうか。大きく羊歯が揺れた。ざざっと。気が付くとあちらこちらで揺れる。杉林と羊歯の海はずっと遠くまで続いていた。これも果てしなく。

 所々に置かれた石像が不気味だった。何かを孕んで沈黙を続ける石像。
「こんな場所は危険すぎて歩けない」
由瑞は言った。
「何が潜んでいるか分からない」
「兎に角、一度寺に戻ろう。あの場所が一番安全な気がする」
樹は頷いた。

「しかし寒いな。ジャンバーでも着てくればよかったな・・」
「本当にね。向こうは暑い位だったから」

二人は黙って歩く。
手が触れ合い、そしてどちらともなく指が絡まった。
いつの間にか二人はしっかりと手を繋いで歩いていた。

樹は口を開いた。
「もう、どれ位ここにいるのかしら・・・」
「さあ?」
「連休終わっちゃったかな?」
「どうかな・・?でも、前回、小夜子さんを迎えに蘇芳や赤津はここへ来たんだ。その時は1クール15分だって言っていたから・・」

樹は立ち止まった。
「15分?」
「そう、あの呼び戻しの時」
樹は「あっ」と声を上げた。
「あの時、皆でここへ来ていたの?」
「そう。小夜子さんの『識』を取り戻す為に。俺は時計係だったから来なかったけれどね。
あの時は、身体は現世にあって、意識だけがこちらに来ていた。」

「今回は皆、赤津も小夜子さんも、俺も君も体ごとこちらに来ている。それがどういう事かという事までは俺には分からないが・・・でも、多分、そんなに向こうでの時間は経っていないんじゃないかと思う。蘇芳はその前に一人でここへ来ているんだ。その時は長い時間、ここにいたと思っていてけれど、戻って見たら僅か数分だったと言っていた」



樹は「はああ・・・」と息を吐いた。
「そんな事だったなんて・・・」
そう言って黙った。



二人はまた歩き出す。
「ここは時間が止っているのかしら?その中を私達はあくせく動いているの?」
「理解できないな。異界だから。どんな理屈で存在しているかは知らない」
「ねえ。だからお腹も空かないし、喉も乾かないの?トイレも行かないで済んでしまっているの?それはそれでとても有難いけれど」
「そう言われれば、確かに・・。でもまあ良く昔話にあるだろう?異界の食べ物を口にしたらそこから帰れないとか・・・ああ、でも浦島太郎は竜宮城で散々もてなされて、それで帰って来たんだよな。浦島太郎の場合は逆バージョンだな。異界では時間が止っていて、それはここと同じ。現世では時間が早く過ぎていた」

「ここはまるで夢の中みたいだ。夢の中では長い時間を過ごしたように感じるが、現実に夢を見ていたのはほんの数分という事が有るだろう。そんな感じだ。時間と言うものの相対性というか曖昧さを強く感じるな。ちょっとこれは考えてみると・・・・何らかの法則が・・」
暫し沈考するが、ふと我に返る。
「俺も馬鹿だな。異界なんて理解不能なのに・・・」
そう呟いた。

はっとした様に樹は立ち止まる。
「ねえ、ちょっと。もしかしたら私達はもう死んでいるんじゃないの?」
由瑞はそのまま樹の手を引く。
「いちいち止まらないで。寺に着かない。死んでいないよ。だって、さっき俺は怪我をしただろう?温かい血が流れた。でも、さっき殺した熊の血液は氷みたいに冷たかった」
「あなたは生きているかもしれないけれど、私は・・・」
由瑞はちらりと樹を見る。
「大丈夫。君の手は温かい」


2人は無言で歩く。


「試してみる?」
そう言って由瑞はふと立ち止まった。

「何を?」
樹は由瑞を見上げる。

由瑞の切れ長の目が樹を見詰める。
樹は魅入られた様にその目を見詰める。目を逸らすことが出来なかった。
由瑞は樹の頬に手を当てた。
「君が本当に生きているかどうか。君は俺を感じる事が出来るかどうか。君は覚えているかどうか・・」
そう呟くと由瑞は樹の顔に自分の顔を寄せた。
樹は固まったまま近付く由瑞の顔を見ていた。
由瑞の唇を感じた。冷たい唇だった。唇は数秒間そこに留まった。

「どう?感じた?」
由瑞は言った。
樹は由瑞を見詰めたままだ。

「これじゃ、分からない?」
そう言って由瑞はもう一度唇を寄せた。
樹の背中を片手で強く抱き寄せ、深く口付けた。
樹は目を閉じた。
膝ががくがくとして力が抜けた。
「赤津には黙っていればいい」
そう囁くと樹の耳に唇を寄せた。
「君の弱い所も知っている」
耳朶をそっと噛む。
樹の体がぴくりと動く。
樹の顎に手をやると、もう一度口付ける。
樹の吐息が漏れる。
体が溶けてへなへなと崩れ落ちてしまいそうだった。

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