第63話  融 2

文字数 3,124文字

融は「ふうっ」と大きな息を吐くと椅子に寄り掛かった。
窓の外には夏空が広がる。

立ち上がって机の引き出しから「離婚届」を取り出した。
それにサインをして机の中に仕舞った。
暫く外を眺める。
「本当に『魔の連休』だったな・・・。もう、最悪・・」
そう呟いた。


あの病院。樹が入院していた。
あの時の会話を思い出す。

「手紙の彼女。住所を教えたの?」
ベッドに横になったまま樹は言った。

融は答えた。
「結婚祝いが届いただろう?研究室のみんなから。あれ、彼女が手配してくれたんだ。届け先を聞かれて教えた」
「ああ・・。成程」

「彼女と何かあったの?」
樹は言った。
「いや、何も。勿論、何もない。・・・向こうに行くと研究室の人と夕飯を食べに行く。それで何回かは食べに行った。それだけ」
融は言った。
樹は融の顔を見て「ふふん」と笑った。
そして「嘘を付くな」と言った。

「『あの夜の貴方との事は水に流しますので・・』って書いてあるじゃん。何?その意味深な文言。・・・そしてその最後の追伸。「私は離婚しました」って。これはどういう意味かしら?何も無くてこんな事をする?」
樹は言った。
融はふうっと息を吐いて樹の顔を見た。

何の事はない。研究室主催のバーベキュー大会へのお誘いだった。
あの研究室では連休の最終日に学生や講師、その他諸々の人達、家族とか・・を集めて河原でバーベキュー大会をするのだそうだ。教授がイベント好きなのだ。
融は参加した事は無かった。出向は終わってしまったが、是非奥様とご一緒にと。そういうお誘いの手紙だった。
ただ一文を除けば。
「あの夜の貴方との事は水に流しますので、是非奥様とご一緒に・・云々」
この思わせ振りな言い方!これを読んだら絶対「浮気したな」と思われる。加えて「PS 離婚しました」。
疑惑感満載。そして俺を貶める気満々・・・。


「何も無くてわざわざ家に資料なんか届ける?それも謎の手紙付きで。もう今更、責めもしないから正直に言いなさい」
「本当だって。・・・俺が浮気したと思ってんの?そんな訳は無いでしょう?俺はずっと君一筋だったのだから」
そう言って笑った。
樹は笑わなかった。
融は真顔になる。

「彼女には触ってもいない。ただ、式を延期した、その事に付いて聞かれたからちょっと説明しただけ。・・・・だって、君は暫く病んでいただろう?あの「マリッジブルー」とやらで。・・・・研究室の人達はみんな2月に式があるものだと思っていた。でもそれは取り止めになった。そりゃあ、みんな聞かないよ。きっと理由があるのだろうと分かっているから」

「俺は君が病んだ原因を知っていたよ。君は何も言わなかったけれどね。
君は佐伯を忘れていなかった。君は結婚を迷っていたんだ。・・・君は俺を選んだから、もう婚約したから、俺を裏切る事が出来なくて悩んでいたんだろう?
俺はそんな君を見守る事しか出来なかった。佐伯の所に行けとは言えなかったんだ」

樹は黙って融の顔を見た。
そして目を伏せた。

「勿論、君が悩んだ末に婚約破棄を言い出したら、それは仕方の無い事だと俺も諦める。・・・でも、俺には自信があったんだ。だって俺はずっと、もう何年も前から君を知っている。君がこの世から消えてしまいそうな雰囲気で、あんな心理学講座に出ていた、あの最低の状態の頃から。あの頃から俺は君と関わって来たのだから」

「だから、君は俺のものなんだ。そう思っていた。君が俺との結婚に前向きならば、後はゆっくり治していけばいいって。佐伯の事もゆっくりと忘れて行けばいいとね。
けれど、そうは思っても、やっぱり辛かったし、悩んだりしたんだよ。・・けれどさ、俺まで一緒に落ち込んでいたら、君はもっと辛くなるだろう?
・・・何しろ、陸君は亡くなっているけれど、佐伯は生きていて、親戚と来ているからな。
史有と小夜子が夫婦で居る限りは。まあ、居てもらわないと困るんだけれど・・。

で、たまたま彼女と二人になった時にちょっと聞かれて、それで少し話をしたの。
二人で食事なんて行く事は無かった。俺だって気を付けていたから。彼女だって俺が婚約をしているのを知っているから、その辺りはちゃんとしていた。同僚と三人で食べていたら、もう一人の奴に家から電話が入って・・・子供が熱を出したとかそんな電話で、そいつは帰ってしまったんだ。それで」

融は暫し逡巡する。
「実は俺と彼女は大学の同級なんだ。学科は違うけれど、お互いを知っている。偶然なんだけれど、出向先にいて・・・お互いにびっくりしたよ。彼女はM大の院に行って、そのままそこで助手をしていたんだ」

「そうなの?」
樹は驚いた。
「そんな事があるのね?」

「で、二人で大学の時の思い出話とかして盛り上がっていたら、『婚約者と何かあったのですか?』と聞かれて・・・。君がマリッジブルーになってしまって、式は延期したって。・・・彼女は結婚していたし、俺は彼女を知っていたから。
いや、あの頃はそんなに親しくは無かったけれどね。会えば挨拶をして、少し会話する程度の間柄だったけれど・・。」

「それで?」
樹は言った。

融は言い淀む。
「いや、私が慰めてあげるって言われて・・」
「ええっ?」
樹は驚いた。
「いや、俺も驚いたよ。何をどうしたらそんな風に繋がるのか分からない。それで、いや、そんな積りはないからって言って。」
樹は口を開けたまま融を見た。
「だって、その人、結婚していたのでしょう?」
「そう」
融は頷く。

「『とんでもない』って言って。それで終わり。
だから何もない。それだけ。彼女の一方的な思い込み。
俺は『全くそんな積りは無かったが、あなたにそんな風に思わせてしまったのなら謝る』って言って謝り、彼女も納得した。その後は普通にしていたから、まあ、それで納得したのかなって」

「納得していなかったんだね」
樹は言った。
「まあ、そう言う事だね」
融は返した。
「水に流せなかったんだね」
「・・・まあ、そういう事だろうね」

「融君はその人が自分を好きだって気が付かなかったの?」
「大学の同級としての気安さや好意はあると思ったよ。でも、そんな素振りは微塵も」
融は言う。
「嘘だな」
樹は返す。
「だって、向こうは結婚しているんだぜ?・・・知っていたら俺だって話なんかしない」
融も返す。

「離婚したからすっきりしてやって来たんだ・・・凄いな」
樹は言った。
「まともじゃ無い」
融は言った。
「そんなヒトなの?」
「いや、すごく仕事の出来る人で。賢くてしっかりしていて、気配りも出来るし・・・。だから、俺もびっくりしている」
樹は疑り深い目で融を見ていたが「ふう」とため息を付いた。

「ごめんね。融君。私はあの頃、あなたに本当に申し訳が無かった。病気になってしまって披露宴も出来なかった。・・・私、あの時、すごく罪悪感があって。由瑞さんに対して。
いろいろと割り切れない思いが沢山あって・・・。自分でそれを処理できなかった。
私、自分がすごく情けなかったよ。
でも、そんな私にあなたは変わらず優しくて・・。私、あなたには出来るだけ心配を掛けない様にしようと思っていた。でも、あなたも悩んでいたんだね。それは当然だよね。私、あなたを不安にさせていたんだ。・・・・あなたはそんな素振りは一切見せなかった。・・本当に御免なさい」

「私は心を切り替えてあなたとやって行こうって決心した。それから、ずっと私は幸せだったよ。貴方といて凄く幸せだったの」

「うん。俺もだよ。すごく幸せだった」
融は樹の手を取って言った。

樹を迎えに行った土曜日。
いい天気だった。
二人で千根川の土手道を歩いた。
飛燕の滝を眺める。滝は勢いよく水飛沫を上げる。
「これがナイアガラ並みの滝になっていたらしいよ」
「恐ろしいな・・」
二人で滝を眺めた。
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