第28話  異界 樹と由瑞 4

文字数 2,251文字

由瑞は樹を肩に担いで歩いている。
片手は使えなくてぶらぶらと下げたままだ。

武人から離れた。
武人は自分達を見ていたが、追っては来なかった。

もしかしたら、あの場所のみを守っているのかも知れない。それとも自分達は生きている人間だから見逃してくれたのだろうか。
離れて見ると、それはやはり石像に見えた。

由瑞は言った。
「兎に角寺へ行かなくちゃ。また熊に襲われたら大変だから。・・・君を担いで行くよ。
君の歩きに付き合っていられない」
「御免なさい。迷惑ばかり掛けさせて。・・・私がこんな場所に来なければ良かったんだ」
樹は言った。
「その通り。君は大人しく家で待っていれば良かったんだ」
由瑞は返した。

・・・

「そうすれば、何でも無かった。こんな場所に迷い込む事も無かった。熊と戦って怪我をする事も・・。・ちょっと、お尻を抱えるよ。背中を掴んでいて。動かないでくれよ。肩から落ちるから」
由瑞は言った。そして小走りで寺に向かった。

樹は両手で由瑞の服を掴んだ。掴みながら涙を必死で堪えた。


寺の中は無人だった。
随分前に廃寺になったのだろう。破れ寺だった。
観音開きの扉をギギギ‥と開けて見る。
寺の中は真っ暗だった。そこに青い光が差し込む。
由瑞は扉を全開にした。
目の前に木造の薬師如来があった。その両脇に立つ月光、日光菩薩。
こんな粗末な破れ寺の御本尊にしては意外な程に立派だった。

由瑞は黙って樹を肩から降ろす。
樹は正座をして深々と頭を下げた。
「色々とご迷惑をお掛けしました。怪我までさせてしまって・・・本当に申し訳が有りません」
そんな樹を由瑞は見下ろす。
「疲れた。・・・俺は少し眠るから。君もそこで眠って。どこにも行かないでくれ。片腕を使えない。・・・・俺はもう君を助けられないかも知れない」
そう言うとごろりと背中を向けて横になってしまった。
その後姿に樹は恐る恐る声を掛けた。
「痛いの?水を持ってこようか?」

「いい。寝かせてくれ。・・・今は君と話したくないんだ。黙っていてくれないか?」
由瑞は言った。

樹は項を垂れてそろそろと入口付近に寄る。
そこで膝を抱えて小さくなった。凄く寒かった。
身体も寒いが心も寒かった。
ぶるぶると震えながら身を竦めた。いっその事由瑞の目の前から消えてしまいたかった。


由瑞は背中を向けたまま言った。
「君といると厄介な事に巻き込まれる。・・・ようやく心の傷も癒えかけて新しい人と新しい気持ちで付き合って行こうと決めたのに・・・。本当に君は目障りだ」
樹は目を見張った。
床に体が50センチほど沈み込んだ気がした。

もう胸が痛くて仕方なかった。由瑞に申し訳が無くて、言われた言葉もショックでどうしようも無かった。自分を置いてでもいいから、彼だけでも無事に帰してください。彼を助けてください。
樹は薬師如来を振り返り、そう願う。
由瑞は相変わらず背中を向けたままだった。

この手が取れれば・・。これさえ取れれば・・。もう由瑞に迷惑を掛けなくて済む。
貴方は一人で逃げてくださいと言える。いや、今度は自分が由瑞を助けられるだろう。
目障りと言われようが何と言われようが彼を助け出さなくてはならない。絶対に助ける。命を掛けても助ける。意地でも助ける。非力だろうが何だろうが絶対に助ける。樹は涙を堪えてそう誓う。

樹は枯れ木の様な手を見詰めた。由瑞が力一杯剥がそうとして剥がせなかったそれ。無理やり剥がした親指が欠けていた。

まるで自分じゃん・・・そう思った。
何かに必死でしがみ付こうとしている。しがみ付かれた人は迷惑なのに・・。
あの時、由瑞さんに「助けて」なんて言ってしがみ付いたから、こんな事になった。

ああ・・そう言うなら融君だって私が来たことは迷惑でしかないだろうな・・と思う。
来て欲しくなかったからあんな風に言ったのに・・・。私って誰にとっても迷惑でしかない・・。ホントに迷惑・・・。

融は大丈夫なのだろうか?
こんな危険な場所で。
樹の心に暗雲が広がる。
けれど、自分にはどうすることも出来ない。
どうすることも出来ないのにこんな場所にいる。
樹はほとほと自分が嫌になる。由瑞でなくても嫌になる。

融の笑顔を思い出した。

甘い笑顔。自分の夫ながら何て素敵な人なのだろうと思った。彼に包まれていれば幸せだった。感覚がぴったり合って、面白いと思う所ではお互いに突っ込み合いながら、いつまでも笑っていた。愛し合った後には二人で色々な話をして、そして彼の腕の中で眠った。
幸せだと思った。凄く幸せだと。

だが、そんなもの全てを向こう側に置いて、あっさりと彼はこんな危険な場所に来てしまう。小夜子と一緒に。私に何も言わず。
融にとって自分はそんな存在なのだ。

ここに何かが起きれば、彼は迷うことなくこちらを選ぶ。あんな風に。明るい笑顔で。行って来るよって言って・・。それを馬鹿な私は何も疑う事を知らないで、ただ待ち続ける。
自分が救いようのない間抜けに思えた。同時に融にとっての自分は・・・大事な時に、邪魔にしかならない・・・お荷物でしかない・・・

そう思ったら堪えていた涙が溢れて来た。
嗚咽を飲み込む。


樹は自分が本当に情けなかった。
涙が流れて仕方が無かった。
黒い手だけが仲間に思えた。

両手でそれを包んで、「可哀想に。可哀想に。独りぼっちは嫌だよねえ・・ああ・・陸に会いたい。陸に会いたい」
融にも由瑞にも、もう会いたくない。

ちらりと薬師如来を見上げる。
最後に付け加える。
「南無阿弥陀仏」と。
と、それが水の様に溶けて無くなった。床には黒い染みが残った。
樹は呆然とそれを見ていた。
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